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『律法が証明するキリスト』

2024年6月16日

 出エジプトの話はヨシュア記のカナンの地を平定するところで終わります。バイブルクラスの話も区切りがいいところになりますので、ヨシュア記とともにこれまでの出エジプトの話を振り返っておきたいと思います。

1980年代にヨルダン川西岸のエバル山を発掘していたスコット・ストリップリング氏は祭壇跡から約2cm四方の小さな鉛の塊を発見しました。

2つに折られた鉛の板(photo credit: Michael C. Luddeni)

祭壇は紀元前13世紀につくられたものでしたが下部にはさらに古い時代につくられた祭壇がありました。鉛の塊は半分に折りたたまれていて脆かったためCTスキャンで内部が調べられました。その結果、内部からヘブライ語の碑文が発見されたのです。
そこにはこう書かれていたというのです。

呪われた、呪われた、呪われた - 神であるYAWHによって呪われた。あなたは呪われて死ぬだろう。呪われてあなたは必ず死ぬだろう。YAWHによって呪われた - 呪われた、呪われた、呪われた。

少しびっくりするかもしれませんが、これはヨシュアに導かれたイスラエルの民がゲリジム山とエバル山の前に半分に分かれて立ち、律法にある祝福と呪いを再確認させたところ(ヨシュア8:30~35)を裏付けるものです。

■申命記11:29
あなたが入って得ようとしている土地に、あなたの神、主が導き入れられるとき、ゲリジム山に祝福を、エバル山に呪いを置きなさい。

内部の文字を詳細に復元したところ、これまで発見されていたヘブライ語碑文よりもかなり古いものであることが確認され、紀元前1400年代のものと考えられるということでした。

正確な発音がわかっていない神の名である「YAWH」が表記されたこの鉛板が紀元前1400年代のものとして発見されたこということに非常に大きな意味がありました。実は聖書に懐疑的な目を向ける学者たちはヘブライ語が生まれたのはもっと後の時代で、モーセ、ヨシュアの時代のイスラエルに文字の文化などは無かったとしていて、聖書も後付けで書かれたものだと主張してきました。それが覆されようとしている訳です。
そうするとヘブライ語がどこで成立したかということが注目されることになります。荒野を放浪中に文字文化が発達したとは考えられず、エジプトで奴隷であった際の成立も考え難いので聖書に記されている通り、古代イスラエルはそれ以前よりヘブライ文字を使ってきており相応の文化を保ってきていたことになります。
さらには、これまで出エジプトの話は紀元前1200年代だと考えられる向きが多かったのですが、実際はそれよりも200年ほど古い時代だった可能性が高くなり、これはエリコの城壁の発掘調査と一致してきます。

2つ並んだゲリジム山とエバル山での祝福と呪いはイスラエルについて2つの点を証明しました。ひとつはカナンの地の祝福が神の約束通り豊かであったこと。もうひとつはイスラエルが何度も神に背いたためにカナンの地を追われたこと。すべて神の前で律法を再確認した祝福と呪いがその通りになって今に至っているからです。

■1コリント14:21
律法にこう書いてあります。「『異国の言葉を語る人々によって、異国の人々の唇でわたしはこの民に語るが、それでも、彼らはわたしに耳を傾けないだろう』と主は言われる。」

これまで出エジプトの話を中心にお話しさせていただいたのは聖書の完全性が如何に高く、神の救いの計画の精度がどれほど高いかということを考え、認識していただくためです。
私たちクリスチャンは信仰が長いほど旧約聖書をそのまま受け入れてしまいますが、思い出していただきたいのは旧約聖書が紀元前にユダヤ人目線で編纂されたということです。そしてユダヤ人は神を信じメシアの到来を待ち望んでいますが、イエスキリストがメシアだとは考えずに律法を手にしているのです。
それでも、ここまでお話しさせていただいたように律法は明らかにイエスキリストが救い主であることを証明しています。

神がエジプトからイスラエルの民を救い出した日が過ぎ越しの祭の日となり、千数百年後の同じ日にすべての人を救い出すためにキリストが十字架にかかりました。3日目にキリストが復活した日は大麦の収穫を祝う初穂の祭で眠った者の初穂としてキリストは蘇られました。それから50日目、弟子たちが祈っているところに聖霊が降り彼らの内側に新しい契約が刻まれることになりましたが、千数百年前のその日はエジプトを出発したイスラエルの民がシナイ山で律法を受け取った日でした。
ほかにも、出エジプトのなかで起こったできごとのタイミング、レビ記に記された祭の意味、律法に基づいたユダヤ人の習慣などあげるときりがありません。
パウロは新約の福音書ではなく旧約聖書を使ってキリストを論証してみせたのです。

旧約聖書が単なる昔話としてしか捉えられない人たちは、その話が実際に起こったことか創作なのかなどということしか考えていませんが、モーセ五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)が仮に創作だったとして、その1000年以上後に起こることを日にちまでぴたりと合わせて、すべて伏線を回収するというようなことは人為的には不可能です。
人間的に言えば、旧約聖書と新約聖書はまったく別な見地で編纂されています。それだけに2つを照らし合わせた時に、時間を越えて1つの神の救いの計画が明らかになるというのは神が介入されているとしか考えられないのです。そういうわけで、先にエバル山での発掘について紹介しましたが、実は聖書のテキストのみで神がキリストを通して救いを計画されたことを知ることが可能なのです。凄いと思いませんか。

今年は感謝なことにバイブルクラスに参加していただける方が増えたので、ルカによる福音書のキリストの話をしていこうかと考えていたのですが、本当の意味でキリストを深く知るためには律法のベースの部分を無視できないと思い、ここまで旧約聖書の話をさせていただきました。

■ヨハネ5:39
あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。


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