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『今日、選びなさい』

2024年5月5日

 今日は嬉しいことに洗礼式があります。このバイブルクラスでふたりの洗礼の場に立ち会えることを本当に感謝します。そこで今回は出エジプトのなかから水のバプテスマの話をさせていただきたいと思います。
先日、私もクリス師の受洗講座に参加させていただいて、「洗礼はバプテスマのヨハネからはじまったのか?」をちゃっかり質問させてもらいました。
昔はそう考えられていたようなのですがクムランの洞窟から死海文書などとともに見つかった文献からバプテスマのヨハネ以前から形態は違うものの、水のなかに浸かるということは行われていたようだとのことです。もともとはユダヤ教に改宗した際に身を清める意味で行われていた沐浴をバプテスマのヨハネが罪から悔い改め、新しく生まれるという洗礼に置き換えた可能性が高いようです。

それでは今、このクラスでお話しさせていただいている出エジプトのなかでも神は洗礼について何か示しているものがあるのではないかというのが、私がすごく気になったところで、今回のお話しをさせていただきます。
パウロはコリント人への手紙のなかで面白いことを言っています。

■コリント10:1~4
兄弟たち、次のことはぜひ知っておいてほしい。わたしたちの先祖は皆、雲の下におり、皆、海を通り抜け、皆、雲の中、海の中で、モーセに属するものとなる洗礼を授けられ、皆、同じ霊的な食物を食べ、皆が同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです。

パウロは葦の海でイスラエルの民が海の下をくぐったことが洗礼だったと言っています。そしてマナを食べて、岩から水を飲んだことに霊的な意味があるというのです。

少し話が変わりますが、イスラエルの荒野での生活を皆さん、想像してみてください。
毎日苦も無く集めたちょっと甘いマナを朝、昼、晩と食べ、毎日大した苦労もなく捕まえられる鶉を食べられる生活…

3日ぐらいなら何とか耐えらるでしょうか。
でも、正直40年も続けられる気がしないです。「神様、ご飯を食べさせてください。チキンを、ビーフを…塩も胡椒も欲しいです」なんて言ってしまうような気がします。自分に置き換えて考えると、荒野でわがままを言い続けたイスラエルの人たちに「いいね」ボタンを連打してしまっているのではないかと思ってしまうのです。
もう少し続けると40年住む家はテントですし、ほぼ同じ服と靴を履いて…風呂は入れるのかわからないという生活なのです。神様、そんな無茶な…と思いませんか?

恐らく誰もがそのように思うのではないでしょうか。では、何故、そのように私たちは考えてしまうのでしょう。
ここが出エジプトのなかでイスラエルの民が海の下をくぐり抜けた際に直面した問題であり、洗礼を受ける者が迫られる決断の本質ではないかと考えます。

【まとめ】


私には出エジプトで好きな箇所が2つあります。ひとつは最初にカナンの地に着いたイスラエルの民が現地の住民に恐れをなして進もうとしなかった時にカレブが放った言葉(民数記13:30)、そしてモーセからイスラエルの民を導くのをヨシュアが引き継ぎ、ついにカナンの地に入ってヨシュアがその勤めを全うした際にイスラエルの民に言葉を放つところです。

■ヨシュア24:14~15
それゆえ、いま、あなたがたは主を恐れ、まことと、まごころと、真実とをもって、主に仕え、あなたがたの先祖が、川の向こう、およびエジプトで仕えた他の神々を除き去って、主に仕えなさい。もしあなたがたが主に仕えることを、こころよしとしないのならば、あなたがたの先祖が、川の向こうで仕えた神々でも、または、いまあなたがたの住む地のアモリびとの神々でも、あなたがたの仕える者を、きょう、選びなさい。ただし、わたしとわたしの家とは共に主に仕えます。

このカナンの地に入る際もヨルダン川のなかをイスラエルの民はくぐりました。これもまた洗礼の型です。
ヨシュアが最後に「きょう、選びなさい」と語ったところが私の好きなところで、今日、私の語らせていただく言葉でもあります。
荒野の旅は主なる神に守られて進みましたが過酷なものであることに変わりはありませんでした。何故、過酷だと感じるのかというと、当たり前ですが私たちは今、不自由なく生活しているからです。そのような過酷な旅をする理由もないのです。不平不満を言ったイスラエルの民も同じではないでしょうか。彼らはエジプトに属していたのです。エジプトでは生活上の不自由はそれほどなかったため彼らはそこを自分の住処にしていたのです。一方、モーセを通して神に従っていったイスラエルの民には過酷な旅をする理由があったのです。その人たちが属していたのはカナンの地であり、そこが目指すべき自分の住処でしたから彼らにとっては帰る途中の旅だったのです。

何度も言ってしまいますが、出エジプトはクリスチャン信仰の写し絵です。
葦の海でイスラエルの民を追ってきたエジプト軍は海に投げ込まれて滅ぼされました。水を通すことは死を意味しますが滅ぼされるのは罪のなかにいた古い自分です。追ってきたエジプト軍は罪ある生活を振り返ろうとする人の心を象徴するものです。人は古い自分と過去の生活をぬぐい捨てて新しく生まれる必要があるのです。
そして、神に属するものは見せかけの自由ではなく、虐げに慣れ切った生活ではない自分の帰るべきカナンの地を目指して旅をはじめるのです。
私たちクリスチャンにとってのカナンは天の御国です。世の中の暮らしはエジプトの暮らしのように豊かに見えて自由に感じ、旅に比べたら楽かもしれません。
ファリサイ派のニコデモはある時、キリストを訪ねてきます。

■ヨハネ3:1~8
さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」

「あなたは神が遣わした教師」とファリサイ派の人にしては割合、良いことを言ったんじゃないかと思うのですがキリストがよくわからない応答していますね。
ニコデモは夜に尋ねてきていますから人目をはばかってキリストの元にやってきたのだと思います。キリストの噂を聞いて気になってしかたなかったのだと思いますが、彼は同じファリサイ派の人々の目が気になっていたのです。それに対してキリストが「新たに生まれなければ」と言ったのは、その立場を捨て去って自分が何に属するかを選び取って歩み出さなければ神の国は見えて来ないと厳しく言ったのだと思います。さらに肉に属している限りメシア(救い主)の噂を聞いたとしても、あなたにはキリストの本質を理解できないだろうとバッサリ切ったのです。恐らくニコデモはキリストがひょっとするとメシアかもしれないと思い探りを入れてきたのだろうと思います。しかし、キリストが行った「しるし(奇跡)」を根拠にやってきたので音だけは聞けましたが、風(キリスト)そのものを捉えることができませんでした。

ニコデモの置かれていた立場はむずかしいものだったかもしれません。
けれども洗礼にはもうひとつ重要な面があります。洗礼講座の中でクリス師がお話しされていたと思いますが、キリストを信じるという宣言、態度を示すということに大きな意味があります。もう一度、エジプト軍がイスラエルの民に迫った時にモーセの口を通して語られた言葉を思い起こしてください。

■出エジプト14:13~14
モーセは民に答えた。「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。あなたたちは今日、エジプト人を見ているが、もう二度と、永久に彼らを見ることはない。主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。」

エジプトと決別したイスラエルに対して「主があなたたちのために戦われる」と言っています。
神は強い手をもってあなたを罪の中から贖いだし、神に属することを宣言したあなたは神のものとされ、神自らが罪の追手と戦われます。ですから、旅の苦労に目を向けるのではなく、帰り着く自分の家、神の国に目を向けてください。後ろを振り返ってはいけません。

■1コリント15:46~47
最初に霊の体があったのではありません。自然の命の体があり、次いで霊の体があるのです。最初の人は土ででき、地に属する者であり、第二の人は天に属する者です。


あなたが属するものを今日、選びなさい。