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“愛”についての考察。


“愛”のチカラは本当にすごいものだけれども、押し売りするのも違うし、強制されるのも違う。

これは“愛”というものは本来、
“自然”そのものだからだと私は思っていて。

だからあるがまま、なすがままが1番だと思っている。それはある意味、人がどうこうできるだなんて思っているのは「おこがましい」ということでもあるんだけど。

人の感情の中に“愛”が存在しているから、話はややこしくなってしまいがちになるんだろうなとも思ってます。なんというか「愛さえあれば、何とかなる」って思い過ぎっていうか。いや、実際「何とかなる」こともあるから、間違っちゃいないけど。手放しで“愛、礼賛”はコワイなぁと。


“愛、礼賛”モードについて考えると、五条悟先生@呪術廻戦の

「これは持論だけどね、愛ほど歪んだ呪いはないよ」

…と言うセリフが地味にズシンと心に響いてくる私。

そう、人の中にある“愛”のエネルギーは、時として歪みまくってひずみをうんで、ノイズを放出して場を狂わせる。だからコワイ。「〇〇に刃物」にならないようにしていきたい、と思ってしまう。

一方で、私が思う“愛”っていうのは“自然”そのものだから、当然、人の命を奪うほどの威力があるので、人がややこしくするのとはまた別次元の“怖さ”がある。でもそれは雪山の美しさに魅せられることもあれば、雪山で命を落とすこともあるという話と同じ。

だからこそ自然の前では、人は常に謙虚かつ畏怖をもってその自然に接しながら、恩恵を頂くことが自然との付き合い方だと思っているけれど、愛も自然であるならば、この姿勢は大切で、それを忘れてしまったら、自然が牙を向けてくるのは当然のことなのかなとも思ってます。

となると。不倫とかいう人の倫理は私的にはあまり興味はなくて、それが自然の成り行きならば仕方ないのかなぁという感じ。まぁ、人の社会で生きるからには全く無視はできないところもあるけれど。作為的なものでないならば、それは雨や晴れといった自然の気象現象を人がどうこうできるものではないのと同じというか。

そしてこの感覚は、意外と高次の存在たちも同じで。人の倫理観的な観点では物事をみていないんだなぁと、セッションをしていると感じることがよくあります。でもそれは、無礼講や無秩序だからではなくて人の倫理観よりも、もっと大きなそして遥かに完璧な秩序が高次の存在たちの中にあるからなので。あ、だから私もいちいち気にしなくなってきたのかもな。そうなると、本当に人の考えることなんてちっぽけだし、たかが知れてるんだろうなぁと彼ら高次の存在の視点には毎度クラクラしています。

もちろんそれは、悪くないクラクラですけど。ね。だからセッションは面白いなと思います。
ありがたい、ですね。

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