等しく疑う
秋晴れの1日。
強い風をたっぷり浴びて浄化して、美しい景色を愛でて心の栄養補給をすると、瞑想中にこんなメッセージがきました。
『この風の時代は、等しく疑うことで成長できる。そしてそれは、等しく信じることで成長できる、ということでもある』
…というメッセージ。
ん? なんだ? 突然だな。
戸惑う私に、今度は兵庫県知事選のビジョン。
この知事選、考えても何がどうなっているのか全然わからなくて、私が放り投げたテーマ。
蒸し返すの? えー、面倒。もういいよ、またいつかわかる時にわかればいいですーと思っていたら。
私がこのテーマで途中まで考えていたことが、蘇ってきました。
最近特にマスコミは信用ならないと思われがちだけど、だからと言ってYouTubeやSNSが信用できるとも限らない。
なのに、なぜ人は『Aが信用できないならBを信じる』という単純な構図になってしまうんだろう?
…ここまで考えて、この疑問の先にあるものが何もわからず、気づきもなく。ただただ、命を落とした方のご家族はどんなお気持ちでこの状況を受け止めていらっしゃるのか、傷つかないでいることができるのかを考えては辛くなり思考停止してしまっていたことを思い出しました。
それを思い出したとたん。
あの時は何もメッセージもヒントも受け取れなかったのは、私が考えすぎて、それらを受け取る余裕がなかったから。
単純な構図になるのは、それがシンプルで分かりやすいから。
でも物事は誰にとっても100%正しいことを見つけるのは、とても困難。それを認めた上で、それでも自分にとっての「正しさ」を求めるなら『Aが信用できないならB』という単純な構図は、それがどんなものであれ『一旦、疑う』方がいい。
すぐに『答』に飛びつかない。
AとBを等しく疑う。
もしくは
AとBを等しく信じる。
そうする方が全容を炙り出しやすくなる。
全容が立体化してくれば、平面で見るよりも、細かい部分の感覚も掴めるようになる。
そこまでできれば、自分が納得できる『答』を出せるようになる。
…という怒涛のメッセージがきました。
ちょっとまだ難しいところはあるけれど。
『等しく疑う』という言葉は気に入りました。
そして『等しく信じる』。
それって『リスペクト』をもちつつ、セパレーションするということかな、と。
ちょっとスッキリすることができました。
思考を深めるのはこうして地道に重ねていくしかないんですよね。ふ。