ドデカミンをこぼして見えてきたもの Part1
仕事終わり電車に乗り込むと、周りの人の視線を感じた。気にせず扉の横の定位置に向かい、鞄を前に抱えた瞬間に状況を把握した。
ドデカミンがこぼれている。
指先に感じた感触と、瞬間的に香ったあの唯一無二の匂いですぐにわかった。
あぁ、やってしまった。幸い私は大した仕事をしていないので汚れて困る書類等はカバンに入っていなかったが、翌日も同じ鞄を使うことを考えると帰ったらすぐに洗わないといけないなと思い気分が落ちた。大事なものを無くした翌日にこれだよ。ついていない。
とにかく、中の状況を確認したく鞄を開けようと思ったが、車内で鞄を開けたら強烈なドデカミン臭が蔓延してしまう。それにもし想像以上に大惨事が起きていた場合、車内でそれを処理するのは骨が折れるしドデカミンをこぼした人として少なくともその30分は周りの人から認識されるだろう。考えた挙句、次の駅で降りてホームで処理しようと考えた。えぇと、次の駅は、、、「六本木」
正直下車するか迷った。地下鉄とはいえ東京の大都会の駅である。きっとおしゃれですごい仕事(語彙力)をこなしてきた人たちがたくさんいて、高い家に帰る途中なのだろう。そんな中、大した仕事もしていない1kに帰る人間がこぼれたドデカミンの処理などしていいのだろうか。
だが現場は切迫している。ここはあえてという言葉を拝借し、下車することに決めた。あえて私のような人間が六本木という駅に降り立つことでバランスをとる。六本木という華やかな人たちの中にあえて私が入ることで、公共交通機関という本来の姿を取り戻すのだ。駅はみんなのものである。
ホームの隅の端っこの窪みのようなところに行きカバンの状況を確認した。
カバンの中は意外にも湿っておらず、書類(大事ではない)も一命を取り留めていた。しかし問題は想像以上にドデカミン臭が漂っていることであった。マスクをしていたからわからなかったが、もはやドデカミンを飲もうとした時のそれである。
これでは電車に乗った瞬間にドデカミンをこぼした人認定される。椅子に座ろうものなら周りから人がいなくなり、#ドデカマンとタグ付けされX(旧Twitter)にさらされる未来が容易に想像できる。いっそドデカマンになっちゃえよと囁く私もいるが変にプライドと羞恥心が邪魔をし再度電車に乗ることは断念した。
ここで意外だったのが、こぼした絶望感と同じくらい密かに楽しみにしていた残りを飲めなくて悔しいという感情が湧いてきたということだった。やっちまったという感情の一人勝ちと思いきや意外と接戦になった。ここまで私は食い意地の強い人間だったのか。私はご飯が食べれなくなったら終わりという母の言葉を指標に自分の健康状態を把握している。この程度で落胆できるということは私はとても健康のようだ。
話を戻そう。電車に乗れないとなるとどう帰るかという話だが、私はすぐにLUUPで帰ることに決めた。理由は楽しいからである。六本木駅から家までは約10Kmで、本来想定されているLUUPを使って移動する距離よりだいぶ多いだろう。しかし、以前LUUPに乗った際にバッテリーの持ちが良いことやそれなりにスピードが出ることからいけると判断した。
早速駐車スポットを検索するが、ここでiPhoneの充電が10%を切っていることに気がついた。ドデカミンバッグからモバイルバッテリーを出そうとするが見当たらない。モバイルバッテリーを忘れた。自己嫌悪に陥る。こぼしたことはまだ許せるが、忘れたことに関しては自分の自己管理能力の低さが招いた事態である。
あぁ、、何をやっているんだ本当に。
仕方なくチャージスポットに行きモバイルバッテリーを借りた。無駄な380円の出費が確定し帰りの電車賃分がなくなった。これからLUUP乗るのに。
昼にちょっといいラーメンを食べたのを後悔した。もやしまでトッピングなんかしちゃってさ。黙って日高屋行っとけばいいんだよぉ!
充電器を借り、予約したLUUPを開錠した。LUUPに乗るのは今回が2度目で、1度目はスタンドがなかなか降りなかったり、うまく移動させられなかったりと手こずった思い出がある。今回はそれらの問題を攻略し明らかにスムーズに発進させることができた。いかにも乗り慣れている感を演出できたのではないだろうか。人は経験して成長するのである。
目的地へ向けて約1時間の旅が始まった。
Part2へ続く