ホワイトアスパラ男(56日目)

感動的なまでの無気力状態である。
取引先とのハードめな飲み会(出席者全員男)を精神的界王拳10倍を発動して二次会カラオケラストの「YAH YAH YAH」全員合唱までこなして切り抜けた反動で本日は生きながらにして死んでいる開店休業、陽の当たらぬ地中で生きてきたホワイトアスパラ人間のくせに何をやっているんでしょうね。
これも例によって、義務感からその場の空気に過適応しがちという自分の忌まわしい性質ではあるわけですが、中途半端にホモソーシャルや体育会系に擬態できるせいで碌でもない目にばかりあってきたような気もしますね。
でもそれはそういう側面が中途半端に自分の中に根ざしているせいな気もしますね。
多少なりともそういう世界で生きてきたから、そういう男性社会の性質に馴染めなさを覚えつつも、サバイブするために取り入れて適応してきた部分、知らず知らずのうちに恩恵を被ってきた部分がきっとたくさんあって、そういう社会構造が揺らぎ始めている今、気づいていない人より先に罰を受けているような状況なのかもしれませんね。

『82年生まれ、キム・ジヨン』を読んだおかげでそんなことを考える。
ジヨンの夫みたいなことをおれは何度も妻に言ったことがある。
彼はあの作品の中で唯一名前を持つ男性として描かれているが、それはただ単に"相対的に見れば他の男より多少マシ"というだけであって、キム・ジヨンを抑圧してきた男であるのは間違いなく、自分が知らぬ間に数多のキム・ジヨンを抑圧してきたであろうことを突きつけられる。
そうしようと思っていなくても、抑圧側に属しているからこそナチュラルに選んでしまう言動、相手に強いる選択がある。
あの本は読んだ人に必ず何か打ち返してくる、剛球の寓話だった。

ではそれを自覚したところで即座にそういう男であることを脱せるのだろうか?
女性の理解者、味方としていきなり身綺麗に生きることができるというのだろうか?
それは無理だと思う。きっとおれはこれからも色んな場面で間違い続ける。永遠に。
これは依存症の治療みたいなものなんだろう。男性社会依存症の。
アルコール浸りで粕漬けになった、永遠に元には戻らない脳みそを、それでも少しずつ元に戻していくような試みを続けることしかできはしないのだろう。
それを男性社会に浸ったまま続けなければならない、というのがなかなか辛いところではあるが。
そこで抑圧されている男性が、さらに女性を抑圧しないと生きていきづらい、となってしまう構造があるような気はする……。
弱いものたちが夕暮れさらに弱いものを叩くというやつだ。

でも本来、フェミニズムは男性をも救うものなのだろうとも思う。
ホモソーシャルな抑圧的世界からの解放を願うのは、女性だけではなくおれのようなホワイトアスパラ男もたくさんいるはずだ。
あらゆる場面でヒエラルキーの上位である抑圧者となることを選ぶことが推奨される世の中になりつつある気が薄々しているが、そこから個々人の意思で好きに抜けられるような世界になってほしいなと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?