この世界がSo kakkoii 宇宙であると子供に伝えながら自分でもそうであると信じることについて
小沢健二の『So kakkoii 宇宙』がとっても良くて、へたすると小沢健二の最高傑作なんじゃないかって思ったりするくらいで、そう感じるのは自分に幼い子供がいて、かつ小沢健二がきっとこのアルバムをジャケットにも登場しているひとり息子に向けて作っているからだと思う。
もちろん自分たちリスナーにも向けているんだけども、まず具体的に想定するひとりのリスナー、というか語りかける相手を息子に設定していて、「これから君は自分の目で世界に触れていくことになるけど、少なくとも僕の見ている・見てきた世界はこんな感じだよ」と案内しているような作品だ。
そこで提示される世界は不思議なくらいの、むしろ意図的であろう多幸感に溢れている。それは現実がろくでもない方向に雪崩をうって流れていっている昨今の情勢を当然彼なりに認識した上で、それでもこの宇宙は生きるに値するということを、いっそう不透明な時代を生きることを強いられる子供たちに伝える必要性に駆られた結果じゃないかと思えてならない。
その必要性、「この宇宙は生きるに値する」と子供に伝えねばならないという衝動めいた感覚。それは今小さな子供を育てている自分の脳からも、無意識的な責務として日々発信されている。というか小沢健二が同じように感じているかは本当のところわからないし、単に自分のその感覚を勝手に小沢健二に投影しているだけなんだけど、みなさんこういう感覚ありませんか。
反出生主義なんてものが昨今盛り上がっていたりもするらしいが、親である自分たちが結果としてこの世界に勝手に産み落としたという責任、というのを若干感じなくはない。でもこの衝動は、子供が生まれてから親として受け取ってきた、これまでに経験したことのない類いの強い情動に根ざしていると思う。
それは寝顔を見ているときなどに自分の首の骨の内側あたりから分泌される、奇妙なほどに根源的な幸福感だったり、自分の手元に"放っておいたら絶対に死ぬ存在"がいて、その生存の全てをまるっとこちらに依存してきているので、手違いや運命のいたずらを常に警戒しないといけない、という恐怖だったりする。
恐怖。
子育ては恐怖との戦いでもある。
子供が生まれてからずっと、子供が死んでしまうのが怖い。怖くてしょうがない。
自分大好き人間としてずっと生きてきたにもかかわらず、子供が生まれてからは「もし自分と子供のどちらかしか生き残れない」と言われたら迷わず自分が死ぬ方を選ぶだろうという確信が生まれていたりもして、自分で自分の変化にびっくりする。だけどそのぶん、ある日仕事中に知らない人から子供が交通事故に遭ったという連絡が来るとか、帰宅したら自宅に規制線が張られていて警察から自宅に侵入してきたシリアルキラーに妻子が殺害されたことを知らされるとか、よくあるいつもの発熱かと思っていたら原因不明で治療方法の確立されていない難病にかかっていることが発覚するとか、そういう自分の力で避けようのない理不尽な死や不幸が降りかかってくることをしばしば想像してしまう。
あまりに怖いので、高階杞一の『早く家へ帰りたい』という詩集を買ってしまった。難病を患って生まれ、4歳の誕生日を目前に亡くなったひとり息子・雄介のことを書いた詩をまとめた、短い詩集。95年に刊行され、昨年夏葉社から新装版として復刊された。自分が買ったのはこの新装版の方だ。
自分の娘が4歳の誕生日を迎える直前に、この本が馴染みの書店に届いた。手に入れた日の夜中に、暖房も入れていない凍える自室で手に取り、そのまま棒立ちで、鼻をすすりながら読み終えた。
冷静に読めなかった。とうてい無理だ。近所のおもちゃ屋に今すぐ行きたくてだだをこね、相撲をとろうとせがむ彼の息子の姿は、日々自分がふれあっている娘の姿とほとんどぴったり重なるものだった。その体が生命維持に必要なものを備えきれずに生まれ、4歳を前に力尽きてしまったことを除けば。
読み終えてからも、ふとしたときにこの詩集を開く。閉じて、無意識のうちに詰まっていた息をほうっと解き、思う。
ひょっとしたら自分は、今のところ「娘が無事に生き残っている」世界を生きているのだろうか。津原泰水『五色の舟』でみんなが逃げてきた、原爆を落とされていない広島のような。
でもこの世界に"くだん"はいない。日々分岐する(ゲーム的な意味での)バッドエンドを今日のところまで無意識に、かつ運良く回避し続けてこられただけの話であって、今この瞬間の進行状況までが保障されているにすぎない。
すべての創作物は、自分の人生にありうべきエンディングの予行演習なのかもしれない。それは待ち受ける未来でもあり、過去に通らなかった別の分岐のワンシーンでもある。たとえばホラー映画を、死を安全な場所から経験できる格好のシミュレーションとして観る人が多いように。
『So kakkoii 宇宙』を聴くことも、『早く家へ帰りたい』を読むことも、今の自分にとってはフローチャートの中で近くの分岐にあるルートのマッピングなのだろうか。あり得たかもしれない辛いエンディングのルートをあらかじめ心の中で踏破しておき、一方で待ち受ける未来があまたあるバッドエンドをすり抜けて輝かしいルートへ向かうように後押しすること。
『早く家へ帰りたい』の復刊に際してのあとがきに、「もうだいじょうぶ 最近書いた詩に、そう記しました。二十年近い時を経て、やっと雄介にそう言えるようになったようです」と書かれていた。
人生はバッドエンドを迎えても終わってくれないことがある。創作が本当に、骨の髄から、心の底から、人生に必要になってしまうのは、そのときなのだろうか。
一瞬そう考えて、少し違うかもしれないと思い直した。
きっと創作は、逃げられない人生を祝福するための、さまざまな絶望となんとかやっていくための、バッドエンドをバッドでないエンドにするための、誰にでも必要な道具なんじゃないだろうか。
そんな類いの微力な祝福について、「流動体について」の上昇気流のようなストリングスを聴きながら思う。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?