精神的遠視(92日目)
日常生活の中で何かを見ている間の思考の動き(というか動きのなさ)について、いま不意に考えている。
目が開いている限り何かを見ているはずなのだけど、例えばスマホの画面でTwitterのタイムラインを追ったりスマホゲーでルーティンをこなしたりするときに、自分は何を見て何を考えているのだろう、という疑問がある。
Twitterやスマホゲーの最中、自分の思考はほぼ完全に止まっている。
目の前をめまぐるしく情報が流れていくが、単なる管になった頭に水を注いでは流れるままにしているような具合だ。
例えばタイムラインのつぶやきを見て、日本・世界の情勢やそれに対する数多の人の反応から読み取れる政治的対立の軸、きっと自分が買っておくべき本の情報などの”有益”なトピック、その島々の間を埋める海みたいな無駄話を1ツイートあたり2秒くらいのスピードで見ている最中は、何やら心のプロセッサがチキチキ動いているようなのだけど、そのとき実行されている何かはスマホの画面を消した瞬間にぷつんと途切れて消える。
スマホを見ているとき、おそらく自分が見ているものは、中身の情報なのではなく、情報を流していく画面の動きそのものなのだと思う。猫じゃらしに否応なく反応する猫に近い。
反射のジャンキーとでもいうべき状態だ。そこに思考はない。
一方、何千回も往復している家と最寄り駅の間の道を、平日の朝、眠気が抜けきらずもやのかかった頭を掲げてたらたらと歩いているときの道すがら。
目に入ってくるものを見ているはずなのに、その見る行為には全く主体性がないというか、歩くことも含めてほぼマクロのように自動化されている気がする。
自分の視界には何回も上書きされて凝固しテンプレートと化した、もはや背景と言っても過言でない風景があって、そこは自分の目には見えているのに自分の意識にとっては見えていないに等しい状態だ。
通る車や人、工事で建て替わるマンションなどの差分は、自分の意識のクロール対象に引っかかるものであれば浮き上がった光景として意識されるけど、そうでないものは背景に埋没する。
もう近場の寄り道を大方やり尽くしてしまったので会社と家の往復をしている限りどこを歩いても背景である。
自分は視覚から情報を得るためのセンサーは弱い方なのだと思う。
身も蓋もない言い方をするなら観察眼がない。
さらに言うなら身近な現実への興味が薄い。
目の前でない遠くの方ばかり見ている。
その点、絵画を見るとか、本の文字を追うのは、目の前にあるものが「見て」って強く主張してくるし、目に見えているものの氷山の下に沈んでいる部分を見ることが保証・推奨されているので、自分にとっては視覚と思考が同時に展開しやすくてとても助かる。
おそらく自分の精神は遠視なのだと思う。
近くにあるものが見えず、それについて考えることも下手だ。
例えば周りの人の心とか、自分を取り巻く世界の細かな美しさとか。
まあ身体も遠視なんだけどさ。
目が遠視かつ乱視なのが自分の思考の筋道にも影響を与えていたりするのだろうか。
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