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てのひら集音器

黒姫ヒーリング紀行 ①

てのひら集音器

 

「川のせせらぎを聴いてみてください…」

森林メディカルトレーナーのうさぎさんは遊歩道で足を止めると、言いました。

「てのひらを耳に付けたり離したりすると、せせらぎの音の違いを感じていただけます」

うたどりさんと私が、てのひらをやんわりと丸めて、左右の耳のうしろに添えてみると…。不思議! 川がまるで、自分の足元に瞬間移動したかのように、水音が迫ってきます。てのひらは集音器になるのですね。

 信州信濃町の森林セラピープログラムを初体験する


2012年5月、私は、初めて信州信濃町の森林セラピープログラムを体験しました。1泊2日の旅のテーマは「五感を開いて」。この旅の相棒は、30年来の親友、うたどりさん。そして彼女の盲導犬です。

うたどりさんは、進行性の網膜の病気のため20代で失明。以来、盲導犬と共に、活動の幅を広げてきました。それもあって、うたどりさんと一緒のお出かけは、いつも愉快です。人との出会いがあり、迷ったり、走ったりハプニングもあり、笑いが絶えません。この旅もそうでした。

でも、ただ楽しいだけの旅ではありませんでした。その後の7年間を振り返ると、あれは60年の人生のなかのターニングポイントだったのかも知れない、と思えるからです。

それはさておき。

「うさぎ」「うたどり」「ツムギ」というのはもちろん本名ではありません。森のキャンプネームです。「黒姫ヒーリング紀行」では、親しみを込めてキャンプネームで呼ばせてもらうことにします。それぞれの由来は…ご想像におまかせしましょう。

 

1日目 春爛漫の黒姫高原

1日目。うたどりさんと私は、やる気満々なトレッキングスタイルで長野駅に合流しました。長野駅からJR信越本線・直江津行き(現在は、しなの鉄道北しなの線・妙高高原行き)で30分ほどローカル列車に揺られると、目的地の黒姫駅に到着です。

まず黒姫童話館へ。童話館の正面に立つと、信濃富士と呼ばれる黒姫山が間近に見えます。その右手には、妙高山と斑尾山を見渡せます。黒姫山の裾野に広がる黒姫高原を下ったさきには、その昔ナウマン象が棲んでいた野尻湖があります。

冬はスキー場になる高原には、根雪が少し残っていました。瑞々しい牧草は黄緑の絨毯のように美しくなだらかにうねっています。標高800メートルのこのあたりは、ゴールデンウィークの今が春爛漫。梅、桜、桃、こぶしがいっせいに花をつけ、カラマツが芽吹いています。吹き渡る風の気持ちいいこと、このうえありません。

私達は、黒姫童話館といわさきちひろ山荘を丁寧に見てまわったあと、「ペンション竜の子」に一泊しました。

楢の薪の暖炉から清浄な墨の薫りが漂い、落ち着いた居心地の良い宿。盲導犬の受け入れも実に自然で、「温かく優しい無視」の姿勢で見守ってくれました。

この日のディナーは、新鮮なアスパラガスのソテーから始まりました。メインは山菜の精進揚げ。コゴミ・ウド・フキノトウ・タラの芽・アブラチャンなどを一品(ひとしな)ずつ、揚げたて熱々をあら塩で、ハフハフ頬ぼります。ホタルイカのパスタ。鯛のソテー・蕪と菜の花添えと続き…。デザートは蜂蜜のアイスクリームとチョコレートケーキに大満足。

食後は暖炉の前で、言葉少なに静かな時間を過ごしました。とろりと甘く芳醇なデザートワイン「氷果の雫ナイヤガラ」を味わいながら…。

 

私達は旅に先駆けて、森林メディカルトレーナーさんにサポートを依頼していました。うさぎさんは「信州信濃町癒しの森®森林セラピープログラム」の公式トレーナーです。

申し込みから当日まで何度となく打ち合わせを重ねてきたので、1日目の夕方に、ペンションで初顔合わせをした時には、まるで旧知の仲のような親しみと安心感を覚えました。

2日目 森林メディカルトレーナー・うさぎさんと森歩き

2日目。いよいよメインイベントの森林セラピーです。私達は、黒姫童話館の前から、うさぎさんに誘(いざな)われて、雨が上がったばかりの癒しの森へと歩き始めました。

御鹿池(おじかいけ)を周る半日コースは、時間にすると3時間ほどでしたが、実にたくさんのスペシャルな体験ができました。

たとえば、松の木からしたたる松ヤニの芳しい香りを嗅ぐ…。トレッキングシューズを脱いで裸足で若草の感触を確かめる…。寝転ぶ…。残雪を踏みしめる…。ふきのとう、どんぐり、くるみなどを拾う…。鉄鉱石の成分を含んだ清流を味わう…。うさぎさんが用意してくれた聴診器のような形の器具で、せせらぎのコポコポを聴く…。「1/f(エフぶんのいち)ゆらぎ」の心地よさを実感しました。そしてフィトンチッド成分をたっぷり含んだ木の香りを胸いっぱい深呼吸…。

雨上がりの森はほとんどひとけもなく、静寂そのもの。私達は、何度もてのひらを耳に添えて、森の気配に耳を澄ませました。

かわいい鳴き声がしました。御鹿池は、きれいな水にしか棲めないモリアオガエルの生息地だそうです。

「この時期は3種類の鳴き声を聞くことができます。一番高くコロコロ・コロコロと鳴くのがシュレーゲルアオガエル。少し濁ってカララ・カララと鳴くのがモリアオガエル。混じって聞こえるケロケロ・ケロケロがニホンアマガエルです。今、森ではモリアオガエルの卵のボールを確認することが出来ます」

 こういったことも、うさぎさんから教わりました。

森をよく知り訓練を受けたトレーナーさんがそばにいてくれたからこそ、安心して歩けました。心と五感を開いて、より深く味わうことができたのだと思います。

 

五感を開く イメージを言葉にする


五感を開くと書きましたが、その中で少し難しく感じたこともあります。それは、「色」と「遠くて触れないもの」のイメージを言葉にすることです。

うさぎさんと私は、持ち合わせの語彙を総動員させて、かわりばんこに説明を試みて、しどろもどろ。しまいには3人で笑いだしてしまうのでした。伝えるのは難しいけれど、なんだか弾けるように愉快だったのです。

逆に、目が見えないうたどりさんが、視覚以外の感性で発見したことはどれも、新鮮な驚きに満ちていました。

眺めただけで通り過ぎるのではなく、より丁寧に見て、言葉にする体験…。もしかすると、それが、より深い感動につながったのかもしれません。

 

ところで、盲導犬を森林セラピーに同行するかどうかについては、うたどりさんとうさぎさんとで事前に十分な話し合いをしました。そして、盲導犬の体にヤマダニをつけないために、安全な状態で屋内に待機してもらうことになりました。

 

こうして2日間の小旅行は、無事に終わりました。振り返ってみますと、個人で行く観光旅行より内容がずいぶん濃かったと思います。一般的な旅行会社が企画募集するような旅のスタイルとも違っています。信濃町の皆さんと旅人が織りなす、手探り足探りの新しい試み。一期一会の旅になりました。

 

「荷物も憂いもトランクに置いていってください」

「気が集中できるので雨の森も好きです」

「遠くの森にわざわざ足を運ばなくても、身近なところに、深呼吸できる場所を発見できるといいですね」

うさぎさんが折々にかけてくれた言葉や温かい眼差しが、今も心に蘇ります。

セラピー終了後に食べた「たかさわ」の霧下蕎麦も、本当に美味しかったなぁ!

帰宅して忙しい日常に戻ってからも、私は何度も繰り返し、あの日の不思議な感動を思い出していたのでした。


ツムギ 60歳・女性。
旅と本と、美味しいものが好きな整体師。整体師歴4年

 (ロゴス点字図書館 月刊点字雑誌『あけのほし』2019年10月号掲載)

# 創作室

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