別れの風景
新聞広告の短いエッセイ(文・伊集院静 画・長友啓典)に目が止まる。「荒野」の読みはコウヤ? アレノ? アラノだろうか。
荒野に思える別れの風景がある一方、花野と名付けたいような別れも稀にはあって、キュリーさんの死の知らせは、私に、幸福といってもいいような感慨をもたらしてくれる。
初代盲導犬キュリーさん
里枝子さんがキュリーさんと歩く姿が目に焼きついている。
キュリーさんは働き盛りの自信にあふれた様子で、まっ黒の毛並みが輝いている。里枝子さんは、といえば、左手に盲導犬のハーネスを握り、右手には幼いあきちゃんの手を、背中にはまさきくんをおぶって、耳をすまし心を開いて、すべてを見ている。
里枝子さんたちと一緒に歩くのが楽しくて、私も幼い子どもたちを連れてあちこち旅した。会えなかった半年分とか1年分とかの空白を埋めるひっきりなしのおしゃべりに時間を忘れて。
新宿駅で迷った。温泉へ行った。SLに乗って秩父へ行った。金沢の森先生のお宅に泊まった。内灘海岸へ海水浴に行った。
「ヤッタネ」
「ウン、ヤッチャイマシタネ」
悪ガキがいたずらの成功を祝うように言う時、そばにはいつもキュリーさんがいた。『あきとまさきのおはなしのアルバム』という会話集づくりも、キュリーさんの存在が大きかったと思う。
『あきとまさきのおはなしのアルバム』
『キューちゃんのおかお』
まさき(2才7ヶ月)が、「ねっ、キューちゃん」と呼びかける度、キュリーがゆったりとしっぽを振る音がする。まさき、キュリーに鼻をくっつけるようにして
「キューちゃんのおかお、なんでくろいの?
キューちゃんのおかおワンワンみたい。ウフフ…」
『ホッカホカ』
あき(4才8ヶ月)
「キューちゃんのできたてのウンチはさ、あのさ、もっとあったかいんだヨ。ビギールでとるとき、あきさわってみたらホッカホカだった。やきいもみたいだよネ。ねえ、おかあさん」
(『あきとまさきのおはなしのアルバム』第3集より)
盲導犬をリタイアする
やがてキュリーさんが引退する時が来た。
里枝子さんから、
「もうキュリーには会わない。呼びかけることもしない。それが新しい人生を始めるキュリーとドロシーへの私の精一杯の愛情」と聞かされた。
里枝子さんとキュリーさんの別れの風景を思うたび胸が痛くなって、「キュリー」の名はふたりの間でしばらく封印された。
キュリーさん逝く
去年の暮、12月21日、キュリーさんは里親のSさんに愛情深く看取られてこの世を去った。
キュリーさんの死の知らせを聞いて泣いている里枝子さんに、小6のまさきくんが言ったそうだ。
「おかあさん だいじょうぶだよ!キューちゃんはじいちゃんといるから」
『おはなしのアルバム』は’90 第四集のあと中断したままだけれども、里枝子さんと子どもさんたち、キュリーさん、そして2代目盲導犬ドロシーさんと家族の会話集は、一冊ずつ積み重なっていることに気づかされる。
文集という形を越えて。
キュリーさんの終末期の話を聞いて、私も気持ちが安らいだ。
キュリーさんが幸福な生涯を全うしたと確信できるから。
そして、2年半の別れを経て、再び里枝子さんのもとに帰って来てくれたように感じられたからだ。
「キュリー カム!」
それがどんなに小さなささやきでも、きっとキュリーさんは来るだろう。
たんぽぽの花かざりをハーネスにして、まっすぐ里枝子さんに向かって走ってくるだろう。
「もらとりあむ4号 1999冬草」収録