10年後の目標
10年後の目標
< 2020年12月20日の記録 >
ワークシートをお守りに
将来の目標(10年後)67歳
生きている。
自宅サロンを持続可能な形で細く長く続ける。
将来の目標(5年後)62歳
自宅サロンの充実。
病院や施設でのボランティア。
将来の目標(1年後)58歳
プロの整体師として自信をつける。
自宅サロンに顧客がつくようになる(20人)。
一日ひとり/週3日くらいのゆるいペースで営業。
将来の目標(半年、3ヶ月後)57歳
矯正コース卒業。自宅サロンの準備。整体学院の直営店のシフトに入る。他店で修行する。
今の行動目標・将来目標を達成させるために何を行う?
1,矯正コース卒業をめざして基礎固め。
2,実践的な手技の研究・訓練。
3,お客様への施術回数を増やす。
4,接客について学ぶ。
5,家人の協力を得るため説得する。
思うところあって、12月に入った頃から書類や持ち物の整理を始めた。断捨離と再構築。いつも机まわりは頭の中のようにぐちゃぐちゃだ。「忙しいから後で分類しよう」「とりあえず保存しておこう」「自分がわかっていればいいのだから」と日々、後回しにしてきたツケが目の前に積み上げられていた。そのほとんどは燃えるゴミになったが、お宝再発見の驚きも時々隠れていた。
はじめに書き写したA4のワークシート、手書きの「10年後の目標」は、
とりわけ、かけがえのない宝物だ。
ここ、県立がんセンターの4014号室にいて、明日の両側乳房全摘手術を待っている現在進行形の私にとっては、お守りのようなものである。
手術前日の朝焼け
大きな窓いっぱいに広がる朝焼けの空を眺めている。膝の上に乗せた真新しいパソコンは、入院直前に娘が整えてくれたMacBook Air。
朝焼けの空がぐんぐん明るさを増し、太陽が眩しく私を照らす。ふと、すべてのことが、かみさまからの恩恵なのかもしれないと感じる。
冒頭のワークシートを書いたのは、57歳、今から5年前である。
そのころの私は、整体学院通学と直営店のシフトが、暮らしのほとんど全てだった。のめり込んでいた。
学院では通常の授業の他に特別講座が開かれることがあり、この日は、卒業生・卒業間際の在校生のための開業セミナーだった。学院の講師で、今は「整体院きのみ〜も」のオーナーである渋澤先生が塾長となられた。鈴木校長もアドバイザーとして参加された。
カードが配られ「自分の長所」「自分の短所」など、与えられた質問に直感的に記入していく。次に、開業の構想を練る作業が続く。
「開業しようと考えている地点からの半径2kmの広告エリアを地図で確認してみよう」
「初期投資や毎月の経費、売り上げの試算をしてみよう」など具体的に数値化する。
最後の課題が「10年後の目標」だったと記憶している。
まず大きな目標を設定し、達成するための段階的な目標を考え、今やるべきことは何かを具体的に書き出す。今を未来に繋げるための課題であったと思う。
5年ぶりに発掘したワークシートを読み返した第一印象は、
「すごいぞ、じぶん。ここまでよくやってきた」
今やるべきこと、半年・3ヶ月後、1年後、5年後までの目標は、ほとんどが想定を超えるレベルでクリアできているではないか!!
もちろん、自己評価に過ぎないのだが、私の人生でこのような達成感はそうそうあることではない。誇らしく素直に嬉しかった。
正念場は、これからの5年間
あの時、10年後の目標を「生きている」と書いたのは、慢性腎炎の基礎疾患を持っていたからであって、がんの発症は想定外だった。
半分ほどの腎機能しかない肉体の限界の中で、人工透析にならないよう養生しながら一病息災をめざす。からだと折り合いをつけながら、という条件付きであっても、やりたいことは手放すまい。あきらめまい。できないことを誰かのせいにして悔やむようなことはもう繰り返すものか、という強い気持ちがあった。だからこそ「生きている」を目標にしたのだ。
当時から現在まで、私にとってやりたいことの中心は、整体の世界にいることだった。整体に関連したことなら無理してでも走ってきた。
「なんのために?」と聞かれたら、迷いなく言えた、「楽しいから!」と。
そこにいるじぶんが一番、私らしいと感じられた。思いもかけないご縁に恵まれることもたくさんあった。
「アイデンティティー」という外来語を、「わたしがわたしらしく生きるための、わたしを立たせる根っこ」と意訳した人のエッセイを読んだ記憶がある。
55歳でリタイアして整体に関わるようになってからわずかに7年。関わってきた時間は短いが、整体師であることが「私の根っこ」になろうとしている。
そう自覚できるようになった矢先でのがん告知だった。
10年後の目標の
「生きている」
「自宅サロンを持続可能な形で細く長く続ける」
は果たして達成できるのだろうか。
ところで、「両方の胸にがんが見つかったの。他臓器への転移はなかったけど、右に1cmのしこりが2個、左に4cmのしこりが1個と広がりがあるので、全摘手術することになってね。年が明けたら化学療法が始まる予定。整体の仕事は一時休業するけど、できれば再開したいと思ってる」と報告すると、ほとんどの人から「なんで気づかなかったの?」と聞き返される。
口には出さなくても「なぜもっと早期に発見できなかったの?」というクエスチョンマークが顔に現れる。なんとなく言われたくない質問だ。
実を言えば予兆はなくはなかった。不調、変化はうっすら感じていた。
1年半前、整体院のシフトから外してもらった理由も、疲労感が強くてこれ以上は続かないと悟ったからだった。
この春に自宅整体ルームの施術枠を縮小した時も、コロナ禍だけが理由ではなく、一日に一人が精一杯になっていた。
朝のからだの重さ、突然の発汗、胸のあたりの圧迫感、つきん、と乳房が痛むこともあった。
「昨日と同じように明日も働けるのかな?」と弱音を吐いて
「なに言ってんの。花の60代だよ。まだまだこれからだよ」
と笑われたこともあった。
予感が的中し、乳がん検診で悪性と診断された時も
「ああやっぱり。いつかくるだろうと思っていたものがきたか…」
という受け止めだった。
「なぜもっと早く検査をしてもらわなかったの?」
と問うてくる人もいる。
愚かかもしれないが、私は手放したくなかったのだ、今の暮らしを。
からだの中でがん細胞が増えつつあっても「がん患者」ではなかったから、ここまでやってこられた。
このモラトリアム期間(猶予期間)があったことを私は後悔しない。信じてもらえないかもしれないが、ありがたいとさえ感じている。
ただ…。
11月7日に告知されてから、より精密な検査が始まった。
乳がんといっても人それぞれに性質があって治療方法もそれぞれなのだ。私の場合は、両側それぞれ原発のがん。左右ともホルモン感受性ありでホルモン阻害薬が効くタイプ。左はHER2タンパク陽性と言って、抗ハーツー薬(分子標的薬)が効くタイプ。転移しやすい活発な性質だけれど、効く薬がある。
つまり、がんと戦う武器があるということだそうで、乳がんを体験した友人たちは「よかったね」と喜んでくれた。家族も安堵してくれた。
治癒の見込みがあると言われると、ついつい希望を抱いてしまうものである。身辺整理の手を休めて、新しいパソコンを買ってしまったくらいだ。
明日12月21日に、両側全摘・再建なしの外科手術。
年が明けたら抗がん剤治療と抗ハーツー薬治療に約1年3ヶ月。
その後、ホルモン治療を10年。
それが私の乳がんの治療と再発予防の方針だ。
しかし、どの治療でもそうだろうが、想定される副作用がある。予期しない合併症も起こり得る。一つには、リンパ節に2mm以上の転移があればリンパ郭清をするので、リンパ浮腫を引き起こし腕や手の働きが悪くなるかも。二つ目は、慢性腎炎があるため、化学療法によって腎機能が一次的に落ち、場合によっては人工透析になるかも。合併症が起こらないように経過観察するが、絶対ないとは言いきれませんと医師からも言われている。
治療法も人それぞれ、副作用や合併症も人それぞれ。どう出るか、やってみなければわからない。
がん治療の知識が増えるにつれて、現実が理解できてくると、冷静な声が私にささやく。
「おそらく、元いた場所には戻れないのだろう。整体ルームも再開できないかもしれない」と。
そして、足元がボロボロと崩れ、根っこごと、私のアイデンティティーごと落ちて行く妄想が止められなくなる。
まるで空中ブランコの下に張られた安全ネットのように
固いと思っていた地面が突然抜けてしまう感覚は、かつても経験したことがある。行こうとしているこの道は、本当にあっているのだろうか。
正直言って、この1ヶ月の私の感情はジェットコースターのような上下動を繰り返している。おそれおののく、わななく、というような感覚の波が打ち寄せるかと思うと、ありがたい平和な気持ちで満たされたりもする。
病院へ向かう車のラジオから、ある日、山下達郎の『蒼茫』が流れてきた。
「泣かないで この道は 未来へと続いている」
「生き続ける事の意味 誰よりも待ち望んでいたい」
という歌詞を聴いたとたんに感情があふれ出した。
元いた場所に戻りたいと願うのは、今の私にはとても苦しい。
だから、こう思うことにした。
「いまから、未知の旅をいくのだ。その一瞬一瞬を味わい尽くそう」と。
すると、不思議なことに違う景色が見えてきた。
軟弱に感じられた足元の、その真っ暗な空洞に、無数の糸が張り巡らされているのだ。まるで空中ブランコの下に張られた安全ネットのように。
糸は光りながら、撚り合わさって太くなって、しなやかに、あっちからもこっちからも紡ぎ出されてくる。
たとえ落ちることがあってもこれなら受け止めてもらえそうだ。
「だいじょうぶ。だいじょうぶ」って、ずっと私にささやきかけてくれる。
この糸は、私が今まで紡いできた人と人とのご縁の糸に違いない。
きっと明日も晴れる。
目が覚めたらカーテンをいっぱいに開けて日の出を見よう。
#保健室
#隠し部屋
#49号冬草掲載
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