理系女子と男社会

 先ず、前提としてだが、私は理系女子という言葉も男社会という言葉も本当は使いたくない。し、好きでは無い。けれど、これから記す内容としては必要不可欠な言葉である。

 私は小学生の頃には薄々と理系だろうなと自覚していた。社会の授業や漢字の練習よりも算数の計算問題や応用問題、理科の方が好きだった。高校でも迷うことなく理系を選択した。数学が一番好きだった。はっきりと出る答えに式を当てはめた時の爽快感。けれど、それって高校数学までの話で、大学で扱うレベルの数学は凄く概念的で答えが無くて誰も答えを知らないような、円周率の終わりを探しているようなものが多い。それでも数学は未だに好きだし、偶に微分積分の問題を解きたくなる。ここまで言うとかなりの理系で数学大好き人間に思えるが、小学校に入る前から本が大好きだし、今でも趣味は読書と必ず言っている。本が好き、というのは読書も含めて紙本の質感や重み、デザインを全て含めて好きだということ。ありがたいことに書評コンテストを初めとする文章を提出するコンテストには何度か受賞させてもらっている。けれど、その受賞した文章というのはいつも相手の事を考えて、何を求められているのか、どういうスタイルで書けば受賞できるかを分かっていて、それに沿って書いたものだった。私の考えだってもちろん入っているけれど、それを包んでいるのは相手に求められている文章の質感だった。今も正にどういう文章が読みやすいかを考えている。結局、私のために書いている文章ってあまりないのかもしれない。
 前置きはここまでにしておいて、本題の理系女子、男社会の話に入ろう。文章が好きで理系の学部で勉強していると必ず心のどこかで引っかかるであろう問題。私の属している学部は特に女性が少ない。勉強している内容も実習内容も今まで男性がしてきた内容というのも強いのだろう。昨今の男女差別をなくすために職場の男女比率を、なんて話が無ければ下手したら大学を落ちていたかもしれない。実際に勉強や実習をしていると、勉強は何の問題も無いのだが、やはり実習で差が出る。圧倒的に力が無い。隣の同期と上手くやっていく術はかなりついた。これって本当に致し方ない。身体の構造の話になってしまうし、頼むときの姿勢やお礼は人として当たり前のことだし。けれど、これは大学だから。社会に出ると話は変わる。女性というハンデ。力のない身体を恨んだって何も起こらない。それに男社会は男女がいる社会よりも少しのズレが大量生産されている。中でも女性への気遣いのようなものは少なくとも男女が同じくらいいる人数の時よりも少ない。飛び交う下ネタ。もう少し女性が多かった数年前よりも確然に増えている。それが悪いとかでは無く、女性がいると話せないような内容を話す機会が増えるという単純明快な事。だけれども、女性として、かなりきつい事がある。気を遣って欲しいのだ。人として。女性だから、ではなく。男性にだって下ネタを不愉快とする人もいる。女性でも好きな人も居る。それは人それぞれで、それをもう少し気遣って欲しいのだ。もちろん、女社会だって男性とは違う気を遣わない側面がある。あと、少し驚いたのは、女社会の方が比較的陰湿に思ってしまうが、実際は男社会も同じように陰湿ということ。やはり人間ってそういうものか。そして理系女子という言葉でも分かるようにとても目立つ。もちろん、女社会にいる男性だって目立つだろう。いつの間にか性別の垣根は越えるものでも、ふとした瞬間に女性から見たらどうなの、という話にはなりやすい。それはやはり人間が男女という雄雌で子孫を残してきたからなのだろう。もし仮に男女という性別が無ければこんな話も理系女子という言葉もなかった筈だ。そういう社会の方が楽しそうなのにな、とは思う。けれどそれは現実逃避だ。実際には男女があって、特に日本では男と女が恋愛をするもの、という風潮というか考えが根強い。それ故に今日ではマイノリティという言葉をよく聞く。これで社会は成長するのか。そいういう今までデリケートに扱われていた側面が認められるという言葉は不適切だけれど、当たり前になったとしても、やはり男女の身体の構造は異なるし、力の差もあって生物学的にも仕方ない事だから必ず差は埋まらないし、それ故の男社会も女社会もずっと半永久的に存在するだろう。その社会に飛び込んだのは本当にやりたいことがあるから。それか興味があるから。けれどもっとより簡単に楽にこういう社会に誰でも飛び出せるような社会にはなって欲しいなと思う。だってこれじゃあいつまで経っても私ではなくて、理系女子の私という目で見られるから。仕方ない。けれど、私を見るフィルターに理系女子があるのはいつになっても慣れないし、いつだって私は違和感を感じるし、いつまでも疑問が残る。私は私を見て欲しい。そういう社会を望んでいる。

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