金本位制という黄金の十字架
一つの宗教同然だった「金本位制」
金本位制(Gold Standard)は、金(きん)を銀行に預け、預けた金を代価として領収書の発給を受け、その領収書をお金として使う制度である。つまり、貨幣単位の価値と金の価値を一致させることであり、このような金本位制は19世紀から20世紀初頭のヨーロッパやアメリカなど全世界で使用された。
金本位制は19世紀、世界最強だったイギリスが最初に導入し、次いで、ドイツ、フランス、ベルギー、スイス、イタリアなどヨーロッパの主要国が1870年代に入って受け入れ、アメリカも1900年に同制度を導入するようになる。19世紀には、このような金本位制に対する信頼があまりにも絶対的だったため、まるで一つの宗教同然だった。ところで、金本位制という宗教の福音書の草案を作成したのは、1810年代の地金委員会であった。そして、そこに霊感を吹き込んだのは、経済学者のリカード(Ricardo)であった。
地金論争の末に施行された「金兌換法」
1797年ナポレオン戦争直前に、イギリス政府は戦費を調達するために金兌換を中断させる。その後、ワーテルローの戦いでナポレオンが大敗すると、イギリスは強力な海軍力を誇示しながら、とうとう大英帝国としてそびえ立つようになる。そして、戦争で勝利したイギリスは、金兌換を再開しなければならなかったが、金兌換を再開することになれば、戦争中に増えた紙幣を回収しなければならず、そうするためには政府がもっと税金を集めて、イングランド銀行に借りたお金を返さなければならかった。このような悩みの前で、イギリスの政界は、二つの派に分かれた。
すなわち、デビッド・リカード(David Ricardo)やジョン・ウィートリー(John Wheatley)などの地金論者(bullionist)は、ただちに金兌換を再開し、イングランド銀行が正道を歩むようにしなければならないと主張したが、彼らはたいていイングランド出身の商人、政治家、学者たちであった。彼らは金だけが本当のお金であり、銀行小切手は虚構と見なした。一方、反地金論者(anti-bullionist)は金兌換に反対した。彼らはジェームズ・ミル(James Mill)、ジョン・スチュアート・ミル(John Stuart Mill)、ジョン・フラートン(John Fullarton)のような主にスコットランド出身の理論家や銀行家だった。彼らは金兌換が再開されると、深刻な不景気が訪れるだろうと主張した。
このような二つの集団間の論争を地金論争(bullionist controversy、1797〜1821)と呼ぶが、20年以上続いたこの戦いでは、当代の有名な経済学者かつ成功企業家だったリカードの活躍に支えられ、地金論者が勝利するようになる。この時登場した理論がリカードの同等性定理(Ricardian equivalence)でもある。結局、1819年金兌換法が制定され、この法に従って1821年イングランド銀行券の金兌換が再開された。こうして、金本位制に対する信仰はさらに深まるようになる。
グローバルスタンダードとして定着した金本位制
イギリスで1819年金兌換法が制定され、1821年イングランド銀行券の金兌換が再開されると、1825年には金融恐慌に見舞われた。すると、人々はこのような不況が金兌換の再開のせいではなく、その前にあったイングランド銀行の過剰な融資のせいだと考え、イングランド銀行を冷めた視線で眺めた。
ついに人々の間では、イングランド銀行を解体してしまおうという意見まで登場した。つまり、イングランド銀行が持っている貨幣の発行独占権を没収し、すべての銀行が貨幣を発行できるようにしようという主張だったが、これを自由銀行主義(free banking system)と呼ぶ。このような自由銀行主義がアメリカでは1914年に連邦準備銀行が設立される時まで行なわれていたため、イングランド銀行は緊張せざるをえなかった。しかし、1837年にイギリスでビクトリア時代が始まり、ロバート・ピール(Robert Peel)首相がイングランド銀行に発券独占力を恒久的に保証した。この時から、イギリスが闡明(訳注:道理や意義を明らかにすること)した金本位制度は、国際金融システムの魂(たましい)となる。
ところで、イギリスが主導した金本位制度がよく守られた理由は、他でもなく、金が珍しくなくなったからである。1848年カリフォルニア、1851年オーストラリア、1887年南アフリカ共和国などで発見された金鉱は、産業革命以降に増えた産業活動を支えるのに十分な量であった。産業革命以降、世界貿易を主導するイギリスに従って金本位制度に参加していないと、経済的不便を越えて、ややもすると孤立する可能性もあったので、ドイツをはじめとするヨーロッパの主要国は次々と金本位制度を採用するようになる。ついに金本位制度がグローバルスタンダードとして定着したのである。
金本位制の危機
しかし、このような金本位制は、1914年第一次世界大戦が勃発して危機を迎える。第1次世界大戦後、イギリスが1925年に再び金本位制度の復元を宣言したが、ジョン・メイナード・ケインズ(John Maynard Keynes)などの学者は、金本位制度を野蛮の遺産(barbarous relic)だと厳しく批判する。所詮地中にあった物体を注意深く掘り出して四角い形に整えた後、再度地中の金庫に埋めておいて金持ちになったかのようにうれしがるざまがどれほど滑稽かというのが彼の主張であった。
その後、1929年に大恐慌が訪れ、世界経済は深い泥沼に陥った。この時、イングランド銀行は再び金兌換停止を宣言し、当時世界で最も金が多かったアメリカさえも、1933年金本位制度を放棄した。それ以来、人類は永遠に金本位制度に戻らなくなる。とうとう人類は、黄金という十字架から降りてくるようになったのである。
金本位制をめぐる経済的利害関係と論争
では、なぜ人々はこんなにも金本位制に熱狂するようになったのだろうか?それは金だけが究極的な形態の貨幣だという人々の認識のせいだった。それで、ノーベル賞受賞者であるロバート・マンデル(Robert Mundell)教授は、「貨幣は、特定の重量の金に付けられた名前に過ぎない」と言ったりもした。
このような金本位制は、人類が敬意を表してきた金という物によって貨幣が裏付けられるために、どこでも流通可能だという利点があった反面、世の中に存在する金の量が限定的であるという問題もあった。結局、かかるシステムの下では、経済危機が迫っている場合、自分が持っている貨幣を金に変えようとする人々のせいで、その国の貴重な金が底をついてしまうのである。
去る2012年、アメリカの大統領選挙の過程で財政危機問題、量的緩和政策がイシューになると、共和党のロムニー(Mitt Romney)候補が金本位制を主張した。ロムニー候補が金本位制への復帰を主張した主な理由は、ドルを無制限に発行することを防ごうという意図であった。つまり、無限の貨幣発行がアメリカのインフレなど様々な問題点を発生させうるという見方のためであった。一方、金本位制では、保有している金の量に応じて、貨幣の発行規模が決定されるので、通貨の乱発による貨幣価値の急激な下落は出現しない。
しかし、世界の貿易量があまりにも大きいため、世界一の基軸通貨の役割を果たすドルを金と連携させることは、多くの問題があった。全世界の金の埋蔵量という現実的な問題も問題であったが、金本位制のような固定相場制では、各国の中央銀行が景気を浮揚して価格を安定させる金融政策を行なうことが難しく、最後の貸し手としての役割を果たすことも難しくなる。さらに、通貨価値を裏付ける金を十分に保有していない国では、銀行の取り付け騒ぎ(bankrun)、つまり、銀行預金を引き出す事態が容易に発生しえたために、このような金本位制は採用されなかった。
一方、金本位制は、金を基準としてお金の価値を定めるため、国家間の貿易不均衡を自制する機能がある。つまり、貿易赤字が発生した場合、これは金の流出を意味し、その結果、お金の価値が上がって物価が下がると、輸出商品の価格が下落して貿易赤字が黒字に転換するのである。これを価格正貨流出入メカニズム(price-specie-flow mechanism)と呼ぶ。
しかし、一部の国では、政府の政策によって、このような状況が意図的に助長されたりもする。すなわち、貿易赤字によって通貨量が減少した場合、物価が下落しなければ、景気後退が発生するが、この時、政府が景気後退を回避しようと人為的に金利を引き上げて、外国資本を取り込むことで貿易収支赤字を補填するのである。その典型的な例が第1次世界大戦後、イギリスが実施したポンドの切り上げだった。しかし、これによってイギリスは景気が低迷した。
金本位制をめぐる経済的利害関係や論争、そして様々な経済現象を見ていると、あまりにも複雑であるように思われる。それは、世界経済が金本位制という十字架につけられ、金を中心とした盲目的信仰に固執したからであった。これからは世界経済が金を中心とするのではなく、絶対的な存在を中心とした信仰によって復活することを祈る。
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