今行なうことがまさに愛と祝福

朝三暮四

春秋戦国時代、宋の狙公という人が猿をたくさん飼っていたが、ある日餌が足りなくなったので、猿たちに「これからお前たちにやるどんぐりを朝に3個、夕方に4個に制限する」と言った。すると猿たちが怒って、朝に3個食べるのではお腹が空いて耐えられないと言った。それで狙公は「それなら、朝に4個やって、夕方に3個やろう。」と言うと、猿たちが喜んだという。ここから生まれた言葉がすなわち朝三暮四である。

一般的に「朝三暮四」は、目の前に見える違いだけを分かって、結果が同じであることを分からない愚かな者を指す言葉として広く使われるが、経済学的観点から見た時、猿の行動は決して愚かではない。実現されないかもしれない将来の利益よりは、現在手に入ってくることが有利だという経済学的論理のためである。つまり、人々は同じお金でも、遠い未来よりは今すぐ使うことができる時、より大きな満足を得る。これは、不確実な未来よりは現在にもっと大きな価値を付与するからだが、例えば、10億ウォンの宝くじに当選し、これを来年1月1日にもらうことになっているが、突然宝くじ事業者が当選金を20年後に支給すると言うと、「いずれにせよもらうお金だから、失くしてしまったことにしてただ待とう」と言う人が果たして何人いるだろうか?

「今」の重要性

お金と同様に、時間も「今」という時間は、多くのお金を与えても換えることができない貴重な時間である。世の中の多くの作家や文豪たちは「今」の重要性について語っている。

イ・ギュギョンの「短い童話、長い考え」という本を読むと、このような言葉が出てくる。「人々は言う。あの時耐えていたなら、あの時によくやっていたなら、あの時知っていたなら、あの時気をつけていたなら、、、後では今がまさに「あの時」になるが、今は適当にすごしながら、しきりにあの時ばかりを捜す」。

17世紀の英国の詩人ロバート・ヘリック(Robert Herrick)は歌った。「バラの花を摘める時に集めよ。時間は休みなく飛んでいくもの。今日微笑んでいるこの花も、明日には枯れるだろう」

スチュワート・アヴェリ・ゴールド(Stuart Avery Gold)の「Ping」という本にも、このような一節がある。「君が夢を見ない限り、夢は絶対に始まらないのだ。いつも出発は『今、ここ』だ。とても多くの人が適切な時と適切な場所を待つのにあまりにも多くの時間を無駄にする。それで終わるのではなく、待っている途中で希望していた心自体が消えてしまうこともある。『時が熟したら』、『そうできる条件が整えば』...と先送りするうちに、いつの間にか現実に埋もれて希望を失ってしまうのだ。だから、何かに『なる(Be)』ためには、必ず今この瞬間、何かを『しなければ(Do)』ならない」

もしかしたら、今この瞬間を逃しているのではないか? 「明日にでもやろう、いつかまたやろう」と言いながら、今すべきことをせず、ただ時間を流しているのではないか?

ロシアの大文豪である「トルストイ」が旅行中にある居酒屋に立ち寄って一晩泊まって出てこようとしたが、病気で寝たきりの居酒屋の幼い娘がトルストイの赤いかばんがほしいと自分の母親にせがんで泣いていた。トルストイはこの母娘にかばんをプレゼントとしてあげたかったが、旅行中だったので、旅行を終えて帰る途中で荷物を空けてからかばんをあげようと思った。数日後、再びそのかばんを持って居酒屋を訪れた時、その子の母親は涙を流しながら、トルストイが旅立った日の夕方、子供が死んだと話した。その子が埋められている墓地を訪れたトルストイは、赤いかばんを墓の前に置いて石碑を立ててやった。そしてその石碑にこんな文章を刻んでおいた。「愛は延期してはならない」

聖三位は「今この瞬間」私たちをあまりにも愛しておられる。だから神様を知り、信じることを延期してはならない。自分が天の御心を今知ろうとし、また行なうことが、まさにその愛を延期しないことである。今この瞬間は、誰かがそんなにも待っていた、言葉では表現できない瞬間であり、すべての祝福と愛を受けることができる時間なのである。

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