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最初で最後の姉弟旅 #おうち旅行 こんな旅もあったねのイラン回想録

えみさんの #おうち旅行 に参加するにあたりどの旅を書こうか迷いに迷った。

私は旅が好きで、中学生の時の進路指導面談で将来は旅人になって写真を撮りたいと堂々と宣言したくらい旅が人生、人生旅なのだ。

今はパレスチナに通っている。
コロナスタック中ではあるが。旅がないと生きていけないし、旅は散財ではない投資だ!と言っているほどだ。

今回は唯一私が最初から最後まで人と行った旅の話。

私は一人旅が好きだ。今まで一人でいろんな風景を見てきた。これからも一人旅を続けるだろう。
この時はなぜか弟と2人旅になった。20代後半の頃、今から15年くらい前のことだろうか?
私はすでに10回以上の海外旅行を経験していたし、ドミトリーも、ローカルな食べ物も興味をそそられるままトライすることが当然のようになっていた。

一方弟は・・・・
新卒で入社した会社を辞め、実家で悶々とした日々を送っていた。と言っても辞めてまだ半年くらいだろうか。

私たち姉弟は私が中学生の頃(弟は小学3年くらい)から一緒に住んでいなかったので多くの人が想像する家族像とは少し違うと思う。
私を養育したのは祖父母で、弟を養育したのは実母と母の再婚相手である今の父だ。

私は用事があって両親の家を訪ねた。母は仕事を辞めた弟を心配していた。弟からすれば頑張って再就職活動をしているのに口うるさいババアというところだろう。

来月イランに行くのよ。ペルシア文化なんて憧れるじゃない?バラの香りと繊細なモザイク煌びやかなモスク、ペルセポリスも見てみたいし。

そんな会話をなんとはなしにしていた。


後日弟からメールが来た。

イラン旅行、一緒に行っていいかな?

私たちは初めて一緒に旅をすることにした。弟はパスポートの取得から始まった初めての海外旅行。
実は楽しみより不安が大きかった。
なぜなら、私は弟のことをあまり知らない。小学3年生で記憶で止まっている、今までどんなものを食べて、どんなテレビを見て、何が好きで、何が嫌いでどんな人生を歩んで来たのか全く知らなかった。

立ち止まる勇気を持ちなさい。

父は私にそう言って送り出した。

初っ端からハプニング

成田空港からイラン航空に乗ってテヘランに向かう。
チェックインを済ますも、ボーディングはディレイの文字。
1時間をおきにディレイが繰り返され、とうとうお食事券が配られた。
今日中に搭乗できるのか一抹の不安を抱きつつ、サンドイッチを頬張る。
CAさんたちの格好もオリエンタルな様相で異文化圏に向かうぞ!と言う空気が溢れる。
待たされただけ、待たされた分、旅の高揚感はどんどんと高まる。
日本人CAさんは仕事としてここで働いています!と言うよりもイランが好きでここに就職しました!と言う人でイランのココが好き自慢を1つの質問に対して10答えてくれるくらいだった。
ますます、イランという国の期待が高まる。
今だったらざくろが旬だということ、ローズウォーターのクオリティの高さ、乾いた空気、ピンクシティの話、何より食べ物が美味しいこと!!

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テヘランに夜12時日付が変わった頃に着く予定だったが延着で到着したのは朝の5時頃、朝焼け直前だった。

アライバルビザを取得し、ミーティングポイントに出る。
オーバーリアクションなくらい、帰国した家族とのハグやキスが溢れかえる光景があった。
・・・この国って人前でキスするんだ。
5時間遅延して予約していた送迎ドライバーもそこにはなかった。

ユダヤ人との出会い

イランの女性たちはヒジャーブを纏っている。それが決まりだ。住人だけでなく旅人もそうするのが決まり。飛行機がテヘラン空港着陸する前にもその案内があるくらい!私も持参したお気に入りのピンクの簡易ヒジャーブをかぶった。マレーシア人によく間違えられる。

サラーム。あなたたち旅行者?どこから来たの??
私たちは日本人よ。初めてのイラン旅行がラマダンとはねー。
あはは、そうね。びっくりしたでしょ?私たちはイランのユダヤ人よ。だけどヒジャーブはここでは義務だからね。笑
イスラム教徒に見えるでしょ?

そうか、見た目じゃ何もわからない。ヒジャーブをした3人姉妹とママを見て一発でこの人たちをユダヤ教徒ですって言い当てられる人っていないよ。外見はただの箱で中身はチョコレートなのか飴玉なのかわからないのと一緒ね。箱の中身は開けてみるまで誰にもわからない。

女子たちは弟を囲んで色んな質問をしている。なんだ、ユダヤ系イラン人に彼はモテるのか。女子たちは彼を取り囲んで放さない。私は近くを一人で散歩する。

やっと解放された彼の一声。

俺も、ここなら顔も薄めに見えるね。

そう、うちの弟どちらと言えば濃いめの顔立ち。流石にイランだったら薄まります。東アジアっぷり出してきます。

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夜のピクニック

旅をした期間は実はラマダン月だった。ラマダンとはイスラム教の聖なる月で断食をする。とはいえ、日暮れにはイフタールという断食明けのお食事がある。

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イスファハーンの庭園を歩いているとやはり東アジア人の私たちは目立つ目立つ。アイドル並みに声をかけられ、手を振られる。私もプリンセス並みに微笑と振りまき優雅に手を振りかえす。

サラーム。君たち旅行中?今から家族でピクニックだから一緒にどうだい?
いいのー?
イランのお茶は美味しいから飲みなさい!

温かくてあまーいお茶をご馳走になり芝生の上に薄い絨毯を敷いてのんびりさせてもらう。
そうめんが入ったみたいなアイスもあった。あれはなんて名前だっけ?

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迷子

ラマダン月、聖なる月。
モスクは大混雑。
私は行きたいモスクがある。有名なイマームも安置されているとか。
絶対行きたい!歴史も文化も染み付いている場所。
金曜日のラマダンの夕刻は街もざわめきモスクにも人が集まってくる。私もその波に乗ってモスクを目指す。

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ちょっと、その格好じゃ入れないよ。そもそも、イスラム教徒じゃないでしょ?申し訳ないけど、入れられないよ。帰って。
私、日本から来たの。どうしても、ここを見学したくて。イスラム教徒じゃないから、イスラム教のことが知りたいの。どうしても入りたいの。お願い!!!

苦笑い

仕方ないね。そうだね、じゃあこのチャードルをあげるからこれを纏って入りなさい。マスジドは男女入口が別だから気をつけてね。
やったー!!!

ここには簡単に書いているけど、このやりとりは1時間以上かかった。どうしても入りたい熱意がルールを超えた瞬間!

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マスジドの中を見学したら、この柱の前で待ち合わせしよう。

マスジドの中は泣きながらお祈りする人たちで溢れていた。その涙は悲しい涙と言うより、何か高揚感、神との繋がり、スピリチュアル的な何かがあった。
私も叫び出しそうなくらいその熱が伝播してきた、泣くほどではないけれど、イマココにいるんだ!そんな気持ちになった。

小一時間たった頃、私は約束の柱の前にいた。乾燥ナツメヤシをもらって口に含むと暑さと乾燥が相まって、いつも以上にその甘さにニンマリする。ラマダンの時はお水とデーツから食事が始まるのよ。

弟を待つ。待ち続ける。そして30分が過ぎ1時間が経った。外はもう真っ暗。

男子側の出入り口から出て来たお兄さんに話しかけた。

弟が入ってまだ出て来てないんだけど、日本人の男性いなかった?
中には人がたくさんいたからなー?ちょっと待ってて見てくる。

私は不安になってきた。無理を言って入れてもらったモスク。父には立ち止まる勇気を持てと言われていたことを思い出した。

それらしき人はいないみたいだったけど、写真とかない?

私は携帯に入っていた写メを見せてもう一度マスジドの中を確認してもらう。

やっぱりいないよ。あ、すいません。この人見なかった?

この青年は周りの人にも声をかけ始めた。私たちの周りには10人以上のお祈りにきたイラン人が集まってきた。

手分けして探そう!君はここにいて待ってて。大丈夫だ。イランは安全な国だから。
やっぱりいないや。僕もモスクの外のお店なんかも見てきたけど。ホテルに戻ってる可能性もあるから電話してみよう。ホテルの名前は何?

当時今みたいなスマートフォンなんてなかった。海外で使える連絡ツールを持ち合わせていなかったのだ。

親切なイラン人男性にホテルの名前を言うと彼はホテルの番号を日本でいうところの104みたいなところに電話してホテルに問い合わせてくれた。

おおー、神様ありがとう!よかった、君の弟くんはちょうどホテルに戻ったところみたいだ。
本当に良かった!みんな、見つかったよ!!!
ありがとう。本当にありがとう。

私は安心して涙が出た。そして2度と人と旅行なんてしないと心に誓った。

さあ、弟くんのところに行きなさい、タクシーを捕まえよう。

彼はタクシーを捕まえドライバーにホテルの場所をペルシア語で説明してくれた上に、ドライバーにお札を渡した。

え?そのお金って?私支払うよ。
いいんだよ。イランの旅を楽しんで!

そう言ってドアを閉めて10人の男衆みんなが手を振って私を見送ってくれた。

ホテルにいた弟は、

マスジド怖くなかった?逃げてきてしまった。

笑ながら言っていた。

いや、マジで笑えないんですけど!!!!

イラニアンホスピタリティ

初めてのイラン旅行。読めないペルシャ語。貨幣表記も読解にままならない。

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地下鉄に乗り、バスに乗り、道に迷い、いつも助けてくれるローカルズたち。
ありがとうと言うたびに返ってくる言葉
This is Iranian hospitality!!
当時の日本でのイラン人のイメージといえば、偽造テレカ!そんな時代だった。

大勢の男たちが私のために走り回って弟を探してくれる事件なんて日本にずっといたらイラン人=ギッテレ(偽造テレカの略)だったかもしれない。イラニアンホスピタリティに触れて世界が広がった。
イランでは誰からもギッテレのキャッチセールスには会わなかった。ギッテレのキャッチは日本にしか生息していなかったのかもしれない。


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両親のこと

イランで過ごしたある夜、弟が言ったこと自分の育った環境のこと。

俺も結構苦労したんだよね。親はどう思ってるか知らないけど。
でも、この父親がいなかったら俺はいない。本当にいてくれてよかったと思ってる。

そうか、彼は苦労だと思っていることがあったのか。確かに環境の変化に順応するとことは必ずストレスを伴う。それでもいてくれて良かったと思える大人が側にいて良かったね。

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旅後母は、弟は変わった、と言っていた。たった2週間の海外旅行だったけど異文化に触れたから?迷子があったから?何が原因かわからないけど、何かが変わったらしい。わかりやすい言葉で言えば一皮向けた・・みたいな感じかな。

私はと言うと、私は一生子供です!そんな宣言を親にしている。私はまだ親じゃないから。年齢は重ねても子供のポジションは譲りません、よろしく!

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弟のその後

弟はずっと実家に住んでいたが旅の後、就職が決まり東京へ引っ越した。

あの時(イランの旅)みんなに優しくしてもらったやん、俺も旅人に出会った優しくしよう。

初めての一人暮らし。大学で取得した管理栄養士の資格を活かした仕事だ。それからもう一回転職をしていてランナーのためのメニュー開発をしたり、カフェのメニューを開発したり、病気の人の栄養相談も受け付けている、そんな仕事をしている。
私は弟のことは今もよく知らないけど、彼が生まれた日のことはよく覚えている。
産婦人科の病院に入って右側に新生児室があって、スポットライトがそこにだけ当たっていた。
光り輝いている小さな赤ちゃん。
それから40年弱が経った。今も変わらない光が当たっている感じ。私にしか見えない光だけど。 

旅はまだまだ続く、旅人ですから


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AzusaSuga
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