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〈アラファト・スイーツ〉とパレスチナのお菓子

以下の記事は、ガザの老舗お菓子屋さん〈アラファト・スイーツ〉について、ガザ出身の友人タハニー・アラファトさんからお話を聞いてまとめたものです。それなりの長文ですので、目次をご覧になって、気が向くところからお読みいただければ幸いです。

全文無料でお読みいただけますが、記事を購入することもできます。

記事のいちばん最後に〈購入手続きへ〉というボタンがあります。そのボタンから記事をご購入いただけますと、私のほうで取りまとめて、全額タハニーさん一家に寄付します。その際に「クリエイターサポート機能」で増額していただくことも可能で、すべてありがたく寄付させていただきます。また、一家で新たに立ち上げたクラウドファンディングのリンクも最後に紹介しますので、そちらからもご支援いただけます。



はじめに

2024年3月、私にはタハニー・アラファトさんという友達ができました。タハニーさんはその頃25歳。淡い色のヒジャブのよく似合う、穏やかな雰囲気の女性です。
 
パレスチナのガザ地区、その北部のガザ市生まれ、ガザ市育ち。ガザ地区では2023年10月からイスラエルによる激しい攻撃が始まり、タハニーさんご家族はガザ地区中部の親戚の家に身を寄せます。5人家族にいとこ3人が加わって8人、そして妹さんの飼っている猫1匹の避難生活でした。
 
ガザ市の自宅は10月のうちに爆撃で破壊され、その後もガザ全域で爆撃が続く中で、アラファト一家はガザの外への避難を望むようになります。避難を望むに至ったのは、お母さんが乳がんになって手術を予定していたのに、2023年10月の攻撃以来、治療が中断されたままでいたことが大きかったようです。爆撃で財産のほとんどすべてを失っていたために、タハニーさんと弟アズミーさんが相談して、エジプトに出るための費用をクラウドファンディングで集めることになります。
 
私がタハニーさんのことを知ったのは、このクラウドファンディングのキャンペーンを通してでした。XやWhatsAppでチャットして、少しずつおたがいのことを話すようになります。その間、アラファト家のキャンペーンにたくさんの方が協力し、避難できるだけのお金がどうにか集まりました。2024年4月にはお父さんを除く7人が、5月にはお父さんが、ラファ検問所を通ってエジプトのカイロにたどり着きました。

クラウドファンディング呼びかけのイラスト。山中澪さんによる。
タハニーさんの妹タラさんと、猫のボンドク。

こうして戦禍を逃れることができたのは本当によかったものの、一家はカイロでの新たな困難に直面します。生活を続けていくためにも、お母さんの治療や、子どもたちの教育のためにもお金が必要ですが、クラウドファンディングで集めたお金のほとんどは、ラファ検問所で通行料を支払うのに使いました。避難してまもなくお父さんとタハニーさんは仕事を見つけましたが、8人と1匹の生活を維持するのに、収入は充分ではありません。

何か日本からお手伝いできないかと話す中で、タハニーさんから、お父さんがガザ地区でお菓子屋さんを開いていたこと、Facebookにページがあることを教えてもらいました。そのページを見ると、日本ではあまり見かけない、とても美味しそうなお菓子の写真がたくさん並んでいました[注]。

* * *

ガザのお菓子屋さんってどんなだったんだろう? お菓子にはどんな種類のものがあって、どんな材料でできているんだろう? Facebookのページを見るうちに、そのお菓子屋さんのこと、そしてパレスチナのお菓子のことがとても知りたくなりました。

 この記事はそんな動機から書き始めたものです。

〈アラファト・スイーツ〉とパレスチナのお菓子の世界にようこそ。

お読みいただき、タハニーさんたちのこと、パレスチナで起きていることにご関心をお持ちいただけると幸いです。



[注] 私はアラブのお菓子になじみがありませんでしたが、少し調べると、日本各地にもアラブのお菓子を出しているレストランや菓子店があります(私の住んでいる小さな市にも2軒あります)。気になる方は「アラブ」「お菓子」「スイーツ」などでインターネット検索してみてください。「トルコ菓子」で検索しても、同種のお菓子に出会えることがあります。


第1章  〈アラファト・スイーツ〉のこれまで

〈アラファト・スイーツ〉は、タハニーさんのお父さんのモハメドさんが、弟ハシムさんと一緒に経営していたお菓子屋さんの名前です。本章では、そのお菓子屋さんをどうやって作ることになったのか、経緯をたどります。

なお、「アラファト」というとPLOのアラファト議長が思い浮かびますが、特に縁故関係にはないとのことです。
 
              * * *
 
その昔――。アラファト家は、代々ガザに住んでいたそうです。一家に伝わるお菓子の製法があり、モハメドさんのお祖父さん(タハニーさんから見るとひいお祖父さん)がその製法を受け継ぎ、お菓子屋さんをしていました。1912年にはお店を開いていました。
 
その頃のアラファト家では、お祖父さん、お祖母さん、お父さん、お母さん、そして6人の子どもたちがひとつ屋根の下で暮らしていました。子どもたちは男の子が4人、女の子が2人。モハメドさんは上から4番目の子。男の子だけだと上から3番目。
 
モハメドさんはお祖父さんが大好きで、長い時間を一緒に過ごしていました。12歳になると、お祖父さんからお菓子作りを教わるようになります。学校から帰ると、お祖父さんの作業をよく観察したと言います。
 
お祖父さんは4人兄弟に、お菓子屋さんを継いでほしいと常々言っていました。お祖父さんが亡くなった後、その言葉どおり、兄弟たちはお菓子屋さんを継ぐことにします。まずは屋台でキャロブ(ココアに似た飲みもの)とトウモロコシを売ってお金を貯め、そのお金でお祖父さんのお店を改装しました。お父さんは西岸に働きに出ていてお店に関わりませんでしたが、お母さんがお金を管理してくれました。
 
お菓子屋さんの名前は、上の2人の兄たちの名前を取って、〈マジディ、マジッド・アラファトと弟たちのスイーツ〉。モハメドさんがマジッドさんにお菓子作りを伝授し、二人がお菓子作りの担当に。兄弟4人がお店を出したのは、1984年のことでした。
 
1984年当時、モハメドさんはまだ15歳。勉強ができ、歴史の先生になることも考えていたそう。お菓子作りをしながら大学に進学し、試験を受けにヨルダンに行ったこともあるそうです。そしてもうすぐ卒業という頃、モナさんと結婚します。
 
(お店の歴史からはやや脱線しますが――モハメドさんとモナさんは、伝統的なお見合い結婚をしたそうです。モハメドさんのお母さんがモナさんに会って気に入って、それからモハメドさん本人が会いに行って、2人は婚約しました。モハメドさん22歳、モナさん16歳のとき。その当時、女の子は身を守るためにも若いうちに結婚したほうがいいと考えられていました。)
 
モハメドさんは大学を卒業しますが、大学時代に若者向けの政治運動にかかわっていたことがイスラエルに問題視され、歴史の先生の仕事は得られませんでした。モハメドさんはお菓子作りを続けることにします。お菓子作りのコツをよくつかんでいるモハメドさんの作るお菓子はおいしく、お店は繁盛して人気を呼びました。

兄弟たちはガザ市内の大きな通りに店を構え、店の隣に工場を作りました。お店のロゴを4人で考え、「本物の味」という意味を込めて馬のデザインにします(馬には「本物」という意味合いがあるとのこと)。やがてガザの他の地域にも4つの支店を設け、工場も大きくして、たくさんの従業員を抱えます。多いときは80人が働いていました。

当時のロゴマーク

しかし2006〜07年頃から、兄弟たちは苦労を重ねることになります。2006年の総選挙でハマスが勝利したにもかかわらず、アメリカなどの大国がハマスの自治政府を認めなかったこと、そして2007年、ハマスの軍事部門によるガザの武力制圧を受け、イスラエルがガザ地区を封鎖したことが大きな要因となりました。封鎖によってお店の経営は徐々に打撃を受けました。原料の値段や光熱費が高騰し、負債も生じました。
 
2010年、封鎖が緩和されたときに、2人の兄たち、マジディさんとマジッドさんは新しいチャンスを求めてエジプトに出て、カイロでお菓子屋さんを開くことにします。
 
ガザに残ったモハメドさんと弟のハシムさんは必死で働きましたが、モハメドさんは腰を痛めてしまいます。それが2015年のこと。半年間、家で安静にしていなくてはならず、その間、お店のお菓子の味は落ち、客離れが起きてしまいました。

半年後、モハメドさんはなんとか復帰して、ハシムさんと一緒にお店の再興に努めます。2022年の秋、二人は貯めたお金のすべてを投じて店を改装し、設備の充実を図ります。同時にFacebookのページをリニューアルし、お店のロゴマークも刷新しました。

現在のロゴマーク

ところが翌2023年の10月7日、ハマスがイスラエルを攻撃し、それを受けてイスラエルによる報復攻撃が始まりました。激しい爆撃が続く中で、モハメドさんは家族ともどもガザ市の自宅を離れ、避難先を転々とした後で、ガザ中部、デイルアルバラの親戚宅に身を寄せます。その後まもなく自宅が爆撃されたという知らせが入り、2024年3月には工場も完全に焼けてしまいました。
 
                * * *
 
そしてFacebookのページが残りました。


第2章  ガザの〈アラファト・スイーツ〉

〈アラファト・スイーツ〉のFacebookページは2024年8月現在も残っていて、リンクを開けば誰でも閲覧できます[注]。 言語はアラビア語ですが、アラビア語がわからない私でも、翻訳ソフトをかざして出てくる日本語表示を読んで、おおまかな意味を把握できます。とは言っても、お菓子の写真が中心なので、言葉がわからなくても鮮やかな写真を次々と追っていくことができます。動画もアップされ、お菓子の作り方が紹介されたりしています。

とても綺麗に作ってあるページですが、日常が突然破壊されたことがうかがえ、切ない気持ちになるかもしれません。

フォロワーは20万人、「いいね」回数は1.9万回。下の方をずっとスクロールすると2015年2月くらいから始まっていて、このページが年月をかけてフォロワーを増やしてきたことがわかります。最新の投稿は2023年9月29日で、更新はそこで止まっています。

でも同時に、かつてのお店の様子がわかる、貴重な記録でもあります。そこで、タハニーさん、モハメドさんの許可をいただいて画像を転載し、お店がどんなふうにガザの人々の生活とともにあったのか、手がかりにさせてもらうことにしました。


[注] Arafat Sweets  


お店の外観

〈アラファト・スイーツ〉本店は、ガザ市の繁華街にありました。こちら、2023年3月28日に投稿された動画より、お店を正面から捉えた日中の画像。白くてお洒落な外観です。

お店の外観(右側のロゴマークと左側の三日月やランタンは画像に追加されたデザイン)

画像の左手に、売店が出ているのが見えます。パレスチナの人たちのおよそ9割がイスラム教を信仰しており[注] 、日の出から日没まで断食をする「ラマダン」の期間があります。この売店ではラマダン期間限定で、日没後に食べるカターイフというお菓子を売っていました。カターイフとはパンケーキに似たお菓子。カターイフの画像も、Facebookページより。右下に「ラマダンはこれなしでは終了しません」とキャッチコピーがついています。

カターイフ

[注] 外務省「パレスチナ(Palestine)基本データ」


お店の外観をもう一枚。2022年10月18日投稿の動画より、夜の〈アラファト・スイーツ〉です。店内が見えます。左手にお菓子のディスプレーと売り場があって、右手がイートインのスペース。明るく照らされ、お店の名前やロゴがライトアップされています。

お店の外観(夜の風景)

2022年当時のガザでは、イスラエルの政策によって1日に6〜8時間しか電気が供給されなかったので、お店では発電機を使っていました。ガザ地区の多くの小売店でそうしていて、ガソリンなどで動かしていたそうです。

お店のサービス

Facebookページをスクロールしていくと、店内でお菓子を買ってもらったり食べてもらったりする以外に、いくつか付加的なサービスが提供されていたことがわかります。

こちらは2023年1月19日の投稿。無料の駐車スペースがあることをアピールしています。ガザ市中心街にあったお店では、駐車スペースを確保することが難しかったので、お店の隣に有料駐車場ができたときに管理者と交渉して、〈アラファト・スイーツ〉のための駐車スペースを借りていました。

駐車スペースの案内

宅配サービスもありました。こちらは2023年になって何度か投稿されていた画像で、いちばん下に「毎週木曜と金曜はガザ地区内で無料配送」と書いてあります。金曜日にお休みの人が多く、お休みの前日の木曜とお休み当日の金曜が、特に注文の多い二日間でした。〈アラファト・スイーツ〉ではお客さんを増やすべく配送会社と契約し、注文先まで届けてもらっていました(写っているのは、次章で紹介するアラビック・クナーファのチーズ入り)。

配達サービスの案内

サッカーのワールドカップ開催中も、無料配達サービスをしていました。下の画像は2022年11月21日より。「ワールドカップを記念して、すべてのカフェへ無料配送」「5品以上の注文で」とアピールしています。

ワールドカップ中の配達サービス

ガザの人たちが、カフェでお菓子を食べつつ、みんなでサッカー観戦していた様子が思い浮かびます。タハニーさんのお父さんも大のサッカー好きだとのこと。この画像の前後には試合結果を知らせる投稿もあり、みんなで試合を楽しんだことがうかがえます。

イスラム教との関わり

〈アラファト・スイーツ〉がラマダン期間中に特別に売店を出していたことからうかがえるように、イスラム教を信仰する人たちにとって、お菓子と信仰は深い結びつきがあるようです。

Facebookページを見ていくと、イスラム教に関連した画像がしばしば出てきます。たとえばこの画像では『クルアーン』(コーランとも)が開かれています。左下には「ラマダン・カリーム」と、ラマダンを迎えるときの挨拶が記され、右下には大きな字で「聖なる金曜日」「神よ、預言者ムハンマドを祝福してください」とあります。金曜日は休日で、家族が集まる日でもあり、この日には預言者ムハンマドに祈りを捧げる習慣があります。

『クルアーン』の画像

もう一枚お借りした画像では、祈りを捧げている大人を小さな子供が見上げています。左側には大きく「聖なる金曜日」とあり、右下にはお祈りの言葉が書いてあります。「神様、あなたが赦した者たち、あなたが喜びを感じた者たち、許した者たち、炎から守った者たち、天国に迎えた者たちの仲間に、私たちを加えてください」

お祈りの画像

この画像の投稿は2023年9月29日の金曜日で、Facebookの更新はここで止まっています。約一週間後の10月7日の土曜日に、ハマスの軍事勢力による攻撃が行われ、それを受けてイスラエルによる報復攻撃が始まってしまいました。
 
ラマダン期間以外の金曜日には、お昼のお祈りのあと、家族みんなで昼食を食べ、そのあとお菓子を食べる習慣があるそうです。2023年9月29日も、その翌週の10月6日も、多くの家族が祈り、昼食を囲み、お菓子を味わったことでしょう。本当の意味での穏やかな金曜日が、パレスチナに一刻も早く訪れることを願わずにはいられません。


第3章 パレスチナのお菓子

〈アラファト・スイーツ〉にはどんなお菓子が並んでいたのでしょうか? Facebookのページから、人気のお菓子をタハニーさんに選んでもらいました。インターネットや本で調べたことも併せて紹介します。

2種類のクナーファ

〈アラファト・スイーツ〉のお菓子の中で、何と言っても一番人気はクナーファだったそうです。そもそもクナーファとは? まずはクナーファ基本情報を調べてみました。

クナーファはアラブ・スイーツの中でも有名なお菓子。Wikipediaの日本語版を見ると、エジプト、イラク、モロッコなど、アラブ世界の各地で作られています。さらにアラブ世界を超えて、トルコ、ギリシャ、ブルガリア、アルメニア、フランス、イタリアでも作られています。名称は言語によってバリエーションがあり、日本語ではコナーフェと表記されることもあります[注]。


[注]「クナーファ」

クナーファには長い歴史があり、『アラビアン・ナイト』にも言及があります。若い娘シャハラザードが王に嫁ぎ、王に殺されまいと千一夜お話を続ける、あの物語です。『アラビアン・ナイト』を手に取ってみると、確かに989〜1001番目の夜に語られる「靴直しマアルーフとその妻ファーティマの物語」という最後の物語の冒頭で、ファーティマがマアルーフにクナーファを買ってきて、と迫っています。その部分を引用してみます。

 「ねえマアルーフ、今夜蜂蜜をたらしたクナーファ(菓子の一種)を買ってきてちょうだい」
 と頼みました。亭主が、
 「実のところ、今日はお金がないんだ。でも神様が何とかして下さるでしょう」
 と言うと、女房は、
 「そんなことを言ったって、承知しないから」
 と言いました。[注]

『アラビアン・ナイト18』池田修訳(平凡社、1992)p. 342-43.

[注] 『アラビアン・ナイト』ないし『千夜一夜物語』は作者不詳。「靴直しマアルーフとその妻ファーティマの物語」は15, 6世紀エジプトの作品と考えられています。

舞台はカイロ、マアルーフは靴直しのお店を持っていて、その日も朝からお店を開きます。ところが客は来ず、お金が手に入りません。店じまいをしたあと、マアルーフは困り果てて涙をため、クナーファ屋の店先に佇みます。するとクナーファ屋の主人が可哀想に思い、後払いでクナーファを量り売りしてくれます。ところが主人は蜂蜜を切らしていて黒蜜で代用したので、マアルーフがせっかく持ち帰ったクナーファにファーティマは文句をつけ、マアルーフは魔神の背中に乗って山奥に逃げてゆき――と、物語が展開してきます。
 
『アラビアン・ナイト』のこの最後の物語が書かれた15〜16世紀、つまり500〜600百年前から、クナーファがちょっと贅沢なデザートとして知られ、生活の一部になっていたことがうかがえます。
 
近年のもう一つ別の例を挙げると、ドキュメンタリー映画『医学生 ガザへ行く』(2021年)にもクナーファが登場します。イタリア人医学生リッカルドがガザでの研修中に、お店に入ってオーダーするのがクナーファ。「クナーファで人生が変わった」と彼は言い、4皿もオーダーしようとします(同行したガザの女性はそれを3皿に修正します)。クナーファがいかに夢中になる食べ物かがわかるエピソードです。

             * * *

現代のクナーファが『アラビアン・ナイト』に出てくるクナーファとどこまで同一かはわかりませんが、現代のクナーファにおおよそ共通するのは、デュラムセモリナ粉(小麦粉の一種)を捏ねて細麺状にした生地をベースにすること――日本ではこの細麺状の生地を「カダイフ」というトルコ語源の言葉で呼ぶことが多いですが、アラビア語では「ラッシャ」ないし「スプリンクル・ラッシャ」と呼ぶそうです。
 
このラッシャをベースに、チーズ、クリームなどを挟んで焼き上げ、ナッツを散らし、甘いシロップをかけてできるのがクナーファ。シロップは『アラビアン・ナイト』の蜂蜜や黒蜜とはやや違い、砂糖水にバラやオレンジの花びらで香り付けをしたものを使うことが多いようです。
 
クナーファを出してくれるお店では丸い大きなトレー状のフライパンで焼き、切り分けて売ることが一般的。YouTubeにも作り方の動画がいくつか出ており、家庭で小さなフライパンを使って作るやり方も紹介されていますが、お店の微妙な火加減を家庭で再現するのは難しそう。熱々で食べるとおいしいようですが、種類によっては冷ましたり、冷やしたりして食べるものもあります。

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〈アラファト・スイーツ〉では大きく分けて2種類のクナーファを作っていました。パーティで出されることもあれば友達と食べることもあって、ごく日常的なデザートだったそうです。以下、順番に見ていきます。


ナブルス風クナーファ(Nablusi knafah)
〈アラファト・スイーツ〉のFacebookページには、このタイプのクナーファが何度も登場します。下の画像はその一枚。大きなフライパンで焼き上げたクナーファを、職人さんが切り分け、サーバーで持ち上げています。熱々のチーズがよく延びておいしそう。矢印の先のアラビア語は「ナブルス風クナーファ」、画像の下部には「食べてすぐわかるおいしさ」というキャッチコピー。

ナブルス風クナーファ

日本にも、ナブルス風クナーファを出すお店は、探せばけっこうあるようです。「ナブルス風」とあるように、ナブルスが発祥の地。ナブルスは、現在ではヨルダン川西岸地区と呼ばれる、二つに分断されたパレスチナのもう一つの地区にある街です。
 
〈アラファト・スイーツ〉では、生地のラッシャをセモリナ粉と水を混ぜて1時間捏ね、15分休ませ、特別な機械を使って麺状に絞り出して作っていました。他のお菓子でも生地として使うので、毎日あるいは一日おきに、たくさん作っていたそうです。
 
その上で、大きなフライパンにラッシャをほぐして広げ、チーズを載せ、さらにラッシャをかけ、そこに「ギー」と呼ばれる溶かしバターを加えて焼き、頃合いを見てフライパンを返してもう片面も焼きます。焼き上がったところにシロップをかけ、砕いたピスタチオを振りかけます。表面の赤みがかった色はナブルス風クナーファの特徴で、天然着色料を使っています。


アラビック・クナーファ(Arabic knafah)
こちらもナブルス風クナーファと同様に、大変な人気だったそうです。ナブルス風クナーファはナブルス発祥ですが、こちらはガザ発祥。他の地域ではなかなか食べられない、ガザのローカルフード[注]。


[注] BBCの記者が2022年にガザでアラビック・クナーファを食べたことを記事にしています(The Palestinian dessert few can enjoy)。ガザ域外ではなかなか食べられないとのこと。取材を受けたのは〈アラファト・スイーツ〉ではありませんが、ガザのお菓子屋さんの様子がうかがえます。


下の画像は、〈アラファト・スイーツ〉の店頭にアラビック・クナーファが並べられているところ。絵文字と一緒に書いてあるのは「アラビック・アラファト」、アラビック・クナーファがいかにお店の自信作だったかがうかがえます。トレーの向こうにはコーヒーのポットと、窓ガラスに描かれたお店のロゴマーク。

アラビック・クナーファ

おもな材料は、ラッシャ、牛乳、ナツメグ、シナモン、クルミ、レーズン、ピスタチオ、アーモンド。
 
ナブルス風クナーファと同様、生地にラッシャを使いますが、アラビック・クナーファのラッシャにはさらに手間をかけ、いったん細麺状に作ったものを砕いてローストして挽いて、目の粗い粒と細かい粒を作り、層にして重ねます。ナツメグ、シナモン、クルミ、レーズンなども加え、大きなフライパンで焼いて、最後にシロップをかけ、砕いたピスタチオとアーモンドを散らします。
 
アラビック・クナーファは作る工程が多く、ナブルス風クナーファを作るよりも時間がかかります。ナブルス風クナーファのなめらかな舌触りとは違い、粒々が残って歯応えがあり、食べるとたくさんの材料が合わさっていることが感じられ、それが魅力だそう。

熱々で食べてもおいしいけれど、冷やして食べてもおいしい。第2章の配達サービスの画像で紹介したように、チーズ入りのバリエーションもあって、その場合は断然、熱々がおいしく、特に冬場の人気商品だったそうです。


その他の銘菓たち

〈アラファト・スイーツ〉では他にもたくさんの種類のお菓子を作り、店頭に並べていました。お客さんの希望によって、お店でそのまま食べてもらうことも、テイクアウト用のトレイや箱に入れてお客さんに渡すこともありました。

銘菓たち

Facebookページのこちらの画像では、お菓子がさまざまな形の小さな箱に詰められ、リボンがかけられ、手土産にちょうどよさそうな美しいパッケージになっています。画像の右下には「際立つおもてなし」とコピーがついています。

1つずつ丁寧に仕上げられた、「銘菓」と呼ぶにふさわしい小さなお菓子たち。すべてを紹介することはできませんが、その中から6つだけ、タハニーさんに選んでもらいました。


ピスタチオ入りブルマ(Burma with pistachios)
ピスタチオで作ったフィリングをラッシャで包み、トレーに載せて溶かしバターをかけ、オーブンで焼いたもの。仕上げにシロップをかけます。

ピスタチオ入りブルマ

ピスタチオはガザでは仕入れるのが難しく、高価なので、ピスタチオをふんだんに使うこのお菓子は贅沢な一品だったとのこと。


クリーム入りブルマ(Burma with cream)
ラッシャを赤く染め、クリームをはさんで巻き、溶かしバターで揚げてシロップをかけ、ピスタチオを散らします。鮮やかな朱色が目を惹きます。

クリーム入りブルマ


カシュー・ブレスレット(Cashew bracelets)
一口サイズのお菓子。カシューナッツをラッシャで包んで焼きます。

カシュー・ブレスレット


クルミ入りナモーラ(Namoura with walnuts)
セモリナ粉、砂糖、水をトレーに入れて混ぜ、クルミ、シナモン、牛乳、ごまペースト(タヒーニ)を加えてナイフで切り分け、シロップを加えてオーブンで焼きます。

クルミ入りナモーラ


クリーム入りコラージ(Kallaj with cream)
セモリナ粉、塩、コーンスターチ、ゴマ油をよくこねてパイ生地にして、クリームを入れて焼きます。

クリーム入りコラージ


ピスタチオ入りバロリア(Blouria with pistachios)
ローストしたピスタチオと蜂蜜を合わせ、ラッシャに挟んで焼いたもの。

ピスタチオ入りバロリア


以上、タハニーさんに選んでもらった6種類でした。

お店では何種類のお菓子を出していたんですか?とタハニーさんに聞いてみたところ、いくつのお菓子が並んでいたか、数を特定するのは難しいとのお返事。1つのタイプのお菓子から、ナッツの組み合わせなどによってたくさんのバリエーションを作ることができ、その都度、お客さんのニーズに合わせて作っていたそうです。
 
               * * *
 
臼杵陽さん、鈴木啓之さん編『パレスチナを知るための60章』には、「パレスチナ人は何を食べているのか」という章があります。その章を執筆された菅瀬晶子さんによれば、パレスチナの食文化は、かつてのオスマン帝国領域一帯をふくむ「食文化圏」に属しているそうです。菅瀬さんの言葉を引用します。

パレスチナ人が現在食べているものを特徴づけているのは、100年ほど前の彼らの祖先が生活手段としていた農耕と遊牧、そしてオスマン帝国の影響である。オスマン帝国の支配を400年近く受けていたパレスチナは、基本的にオスマン帝国領域に共通する食文化圏に属している。カフカースからバルカン半島、シャーム(歴史的シリア)地方と呼ばれる東地中海アラビア語圏に至る広大な地域で、オスマン帝国の影響を強く受けた食文化が培われてきた。

『パレスチナを知るための60章』(明石書店、2016)p. 32.

この「食文化圏」という捉え方をすると、クナーファがアラブ地域やトルコなど、広大な地域で作られていることも理解できます。また、他の銘菓の名前をインターネット検索すると、トルコのスイーツとして出てくることが多々あるのですが、その理由もわかります。
 
タハニーさんのひいお祖父さんが先祖から受け継いだのは、こうした歴史を背景に持ち、異文化との接触によって豊かになったお菓子のレシピでした。

ピスタチオ入りバロリア(by 山中澪さん)


第4章 タハニーさんにインタビュー

〈アラファト・スイーツ〉のお店で働くお父さんの姿を、娘のタハニーさんはどんなふうに見てきたのでしょうか? タハニーさんは過酷な状況の中を何とか避難してきたばかりなので、踏み込んだことを伺うのもためらわれますが、「何でも訊いて」というタハニーさんに、思い切っていくつか質問させてもらいました。

― タハニーさんは、お父さんがお店で頑張っている姿をずっと見てきたんですよね。お店のこと、お父さんのことをどんなふうに思っていたか、教えてもらえますか?

「父は自分の好きなこと、得意なことを仕事にしてきました。そんな父を見て、私はとても素晴らしい気持ちでした。それに、有名なお菓子屋さんで、みんなが父の仕事を褒めてくれたんです。父は私の誇りです。店が変わらずそこにあったらいいのに……。こんな困難に遭わなければよかったのにと思います」

 ― 大事にしてきたお店がなくなってしまうというのは、本当にやりきれないことだろうとお察しします。お父さんはお店の中でも大事な役割を担っていたのですね?

「父は職人のみなさんを指揮して、工場でのお菓子作りを担当していました。工場にいることが多く、それだけで大変だったので、お店でお客さんの相手をするのは1日2時間だけでした。お気づきかもしれませんが、それもあって、お店の動画にあまり父は登場しないんです」

― 確かに。でも、工場でナブルス風クナーファを作っている動画には、お父さんがちらっと映っていらっしゃいますし、タハニーさんのお話からも、お父さんがお店をしっかり支えていたことが伝わってきます。タハニーさんご自身も、お店や工場にはよく行きましたか? 

「お店と工場はビルの一階で、私たちはその上の階に住んでいました。だからお店にはほとんど毎日みたいに行っていました。工場にも小さい頃はよく行きましたね。火を使って暑いので、父は汗をかきながらお菓子を作っていました。私はその様子を眺めたり、クナーファにナッツをかけるのを手伝ったりしました」

― タハニーさんご自身は、どのお菓子が一番好きですか?

「正直に言うと辛い食べものも好きなんですが、お店のお菓子でとくに好きなのはピスタチオ入りバロリアと、アラビック・クナーファです。アラビック・クナーファのチーズ入りがとても好きで、父にリクエストすると、私のために特別に作ってくれることがあります。いつもではないですが……」

― タハニーさんが大学で経営工学(インダストリアル・エンジニアリング、IE)を勉強したのも、ゆくゆくはお店の経営に役に立つかもしれないと思ってのことでしたね。

「私が大学に入学したのは、ちょうどお店の経営が難しいときでした。経営工学では、生産を向上させ利益を上げるにはどうしたらいいかを研究します。経営工学を勉強して、父の工場に適用したい、まずは卒業したら仕事を見つけて経験を積み、それから父の仕事を手伝いたいと思っていました」

― そういう計画を立てていらしたんですね。ガザでは仕事に就くのがとても難しいと聞いたことがあります。

「大学4年生のときに3ヶ月のインターンをした職場で、卒業後もボランティアとして1年働いたあと、3ヶ月契約の仕事を得ました。最初にお給料をもらったときは、口では言い表せないくらいうれしくて、家族みんなにお金をあげました。その後、通信サービスの会社で採用され、2年間働きました。大学の授業料などにかかったお金を父に返し、自分に携帯、弟にパソコンを買い、家族にも、家族以外で困っている人にもお金をあげました。私は働くのが好きだし、自分で稼ぎ出せることが気に入っていました。9月にその契約は終わり、父の仕事にも活かせるような講習を11月から受けるはずでしたが、この戦争が始まってしまいました」

― キャリアアップして、お父さんの仕事を手伝うという目的に近づいていたのに、本当に残念です……。最後に、今の気持ちを少しだけ聞かせてください。お父さんは、お店のことをどんなふうに思っていらっしゃいますか? 

「戦争のせいでお店を失って、父はとても動揺していてショックを受けています。私は父に対して、生き延びることができたじゃない、これからやり直せるでしょうって何度も言いますが、昔ほど健康じゃない、これまで築いてきたものを全部失ってしまったと、父は嘆いています」

― 私もタハニーさんのお父さんと同い年なので、健康に自信がないという気持ちは少しだけわかります……。タハニーさんご自身は、今どういう気持ちでいますか?

「私も大きなショックを感じています。しょっちゅうぼんやりしてしまって、人生って予測がつかない、何もかもが突然に消えてしまうことがあるって思っています。生活は安定していたし、家もあったし、父の仕事もありました。これまでにいろいろあったとしても、父は評判を回復しようと努めていたし、店を新装して頑張っていました。でもこんなことになってしまいました」

― 避難してきたあとも、不安な毎日が続いているのですね。本当に、何か明るいきざしがあるといいのですが……。タハニーさん、仕事の合間を縫って質問に答えてくれて、本当にどうもありがとう。


おわりに

〈アラファト・スイーツ〉とそこで販売されていたお菓子について、いろいろな角度から紹介してきました。ガザの老舗のお菓子屋さんがどんなだったか、思いを馳せていただければ幸いです。
 
この記事は、私(片山亜紀)がタハニーさんと英語でやりとりした内容をもとに書きました。タハニーさんには原稿の英訳を送り、内容の確認をしていただきました。それでも誤解や間違いがあるかもしれません。お気づきの点はどうぞご指摘ください。
 
              * * *
 
改めてここまでの内容を振り返ってみると――。

タハニーさんのひいお祖父さんは、1912年にはガザ地区でお菓子屋さんを開いていたので、アラファト家は100年以上、ガザでお菓子屋さんを営んでいたことになります。
 
パレスチナの地の一部にイスラエルが建国された1948年、パレスチナ人が理由なく虐殺され、土地を追われる「ナクバ」の悲劇が始まりますが、アラファト家は、この影響を直接的には被らなかったようです。もともとガザで暮らしていた人たちだったせいかもしれません。
 
しかしその後のイスラエルによるガザ地区封鎖は、アラファト家に大きく影を落としました。兄弟4人で開いたお菓子屋さんは、2007年に始まる封鎖によって打撃を受け、経営困難になりました。さらに2022年、弟たち2人が〈アラファト・スイーツ〉として再出発しようとしたお店は、翌2023年の攻撃によって営業停止に追い込まれ、2024年3月には工場も焼かれてしまいました。
 
封鎖と軍事侵攻は、一家の歴史と、日々の努力を踏みにじっていきました。
 
               * * *
 
タハニーさんへのインタビューからは、タハニーさんもモハメドさんも、大きな失意の中にあることが伝わってきます。しかしそんな中でも、避難してきた8人の方々と猫1匹は、エジプトでの新しい生活を始めています。それぞれの今を、差し支えない範囲で記します。
 
モハメドさんは、お兄さんたちがカイロで開いたお菓子屋さんで職人として働いています。無理がたたって腰を痛めてしまいました。本当はガザに戻りたいと、タハニーさんに話しているそうです。
 
タハニーさんのお母さん、モナさんは、ようやく病院で乳がんの診察を受けることができ、治療計画を立てているところです。
 
タハニーさんはカスタマーサービスの仕事を得て、金曜日以外、毎日オンラインで働いています。給与は高くないけど贅沢を言っていられないし、仕事にも慣れてきたとのこと。同時に、伯父さん家族と話し合って、一週間おきにお祖母さんの在宅介護をしています。介護は大変ですが、4兄弟がお菓子屋さんを始めるときに経営を支えてくれたお祖母さんを、タハニーさんはとても大事に思っているそうです。
 
タハニーさんの弟さん、妹さん、そしていとこたちは、それぞれ勉強を再開しようとしています。妹のタラさんといとこのお1人は、本当は中学校に通うはずの年齢。でもエジプトでは市民権がないために公立校への通学が認められず、インターナショナルスクールは授業料が高くて通わせることができません。エジプトのパレスチナ大使館がオンライン教育の方法を探してくれており、その連絡を待っています。
 
弟さんたちは攻撃が始まったときに大学生だったので、まずは奨学金を探しつつ、卒業を目指しています。ガザの各大学は、建物をすべて破壊されてしまったものの、大学の機能を一部エジプトに移すなどして、オンライン教育を準備中。弟さんたちはその連絡を日々受け取りつつ、働き先も探しています。
 
最後に、妹タラさんの猫ボンドク。ボンドクは、避難の際に逃げ出してタラさんを心配させるという事件もありましたが、カイロのアパート暮らしにもなじんできたそうです。

2024年9月現在、イスラエルは今なおパレスチナへの軍事攻撃を毎日続けています。2023年10月7日からほぼ11ヶ月が経ちました。ガザから外に避難するほぼ唯一の出入り口だったラファ検問所は、5月上旬に閉じられ、それから4ヶ月になろうとしています。完全封鎖されたガザの中で、イスラエルはガザの人たちに繰り返し移動を強いながら、やむなく避難した先の学校、病院、住居、布一枚のテントを見境なく攻撃しています。

またガザ地区だけでなく、ヨルダン川西岸地区でもイスラエルによる攻撃が激化しています。ナブルス風クナーファの発祥の地ナブルスでも、2024年9月現在、イスラエルからの入植者がパレスチナ人の土地に放火したり、イスラエル軍がパレスチナ人の家をブルドーザーで破壊するなど、信じがたい暴力行為が続いています。
 
実は、タハニーさんは多くを語りませんが、一緒に避難してきた3人のいとこたちのご両親――お父さんのハシムさんとお母さん――は、現在もガザ北部にいらっしゃいます。2023年10月以降、ガザ域内で避難を繰り返す中で、ハシムさんたちは子どもたちと離れ離れになってしまいました。タハニーさんたちも合流しようと試みましたが、交通が遮断され叶いませんでした。
 
親子が、きょうだいが、友人たちが、一刻も早く再会できますよう。パレスチナの人たちが何ら生命を脅かされることなく、尊厳を持って生きられる世界が、一刻も早く到来しますよう。

〈アラファト・スイーツ〉のロゴの馬と、猫のボンドクが飛翔していくイメージ。山中澪さんに描いていただき、7月から8月にかけてのTシャツ販売で使いました。Tシャツはたくさんの方に買っていただき、タハニーさんご家族の生活支援に充てました。


参考文献・関連リンク・謝辞

ここまでの記事内に示していないリンクと本を挙げます。以下の本やサイトを、具体的な書き方としても、書くときの方針としても、大いに参考にさせていただきました。どうもありがとうございました。
 
糸川乃衣さん「ガザからの声 〜ハニーンさんに聞きました〜」
糸川乃衣さん「ガザからの声 〜ムハンナドさんに聞きました〜」

Creamy Emiさん「ガザからの手紙 Yazanの場合」
Creamy Emiさん「ガザからの手紙 Mohammedの場合」

MOEさん「ガザとわたしは繋がっている① 〜Nourさんに聞いてみた〜」
MOEさん「ガザとわたしは繋がっている② 〜子連れでデモに行ってみた〜」
   
藤永香織さん『ハヤーティ・パレスチナ ―― 夢をつなぐカフェ』(復刻版)(ヤスミーン・ライブラリー、2024) 

日本でのパレスチナ連帯アクションの情報は、こちらからご覧になれます。
OLIVE JOURNAL 市民がつくるパレスチナ情報サイト

他にもさまざまな方にご協力いただきました。山中澪さんにはイラストの転載をご快諾いただきました。Wさん、Kさん、Hさん、Hさん、Aさん、Sさんには、原稿を読んでいただき、貴重なご意見を頂戴しました。どうもありがとうございました。

最後に、タハニーさんの弟さん、アズミーさんが中心になって立ち上げているクラウドファンディングの情報を記します。下記リンクより、可能であればご寄付をいただけますとありがたいです。(2024年10月30日追記:新しいリンクに貼り替えました。)

日本語非対応のサイトです。簡単に方法を書いておきますーー。
1. リンク先の"Donate Now" ボタンを押します
2. 次の画面で寄付される金額を選択肢から選ぶか、数字を入力します(単位はカナダドル)
3. "Tip" は動して0%にもできます
4. カード情報を入力します
5. 寄付者のお名前として、名前の表示を希望されない場合は、"Don't display my name publicly on the fundraiser" にチェックを入れます
6. 画面下の"Donate Now" ボタンを押します

また、記事冒頭に書きましたように、この記事をご購入いただける場合は、下の〈購入手続きへ〉ボタンから購入できます。併せてでも、別途でも、クリエイターサポート機能もお使いいただけます。タハニーさん一家のご支援に全額を充てさせていただきます。

長文をお読みいただき、どうもありがとうございました。
Free Palestine. パレスチナに自由を。

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