完璧であることより目的が大切
みなさんチームワークしてますか?
No.3代行を事業としてやっているthree.Tのウエツです。
ボクは「皆が選択できる社会をつくる」のを目標に活動しています。
人生の大半は【はたらく】ことから成り立っているので、その【はたらく】において「様々な形があってもいいのでは?」という想いから、自らパラレルワークを体現し、子どもたちが大人になるときには、【はたらく】の多様性が広がるように日々努めています。
ボクの【はたらく】はチーム(企業)のNo.3を代行することで、業種は問いません。
結果パラレルワークを法人化したという格好です。
どんな状況になっても『圧倒的ポジティブ』を武器に常に前進しています!
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パラレルワークをしていると、タスクの量が恐ろしくなるときがあります。
もちろん、常時そういうわけではありませんし、新しいことを考えるときははやり余白があった方がいいので、できるだけ「手放す」ことをしながらスペースをつくってはいます。
ただ、ボクの性格上、せっかく頼んでくださったのだから引き受けたい!となってしまい、オーバーフローしてしまうという悪循環に陥ります。
どんな仕事でもそうですが、ひとつのことだけを進めていけるのであれば、どんなにやりやすいことか。
それでも、いろいろなことをこなし、様々な経験をするからこそ生まれる発想や技術もあって、特にそういったことで生きてきたボクには、ひとつのことだけを進めていく瞬間よりも、いくつか並行して行っているが楽しいのでとてもありがたいんです。
とはいうものの、オーバーフローしてしまっては意味がない。
そこで大切にしているのは「60点」です。
目的はなんだ!?
詰め込み世代のボクにとって、「100点」を取ることは生きる命題のようになっていた。
小学生の頃は、
100点取ったら100円ね!
なんて、母親から言われて必死にそれを目指して学んだこともあった。
けれど、中学生になるとそんなに簡単に「100点」を取ることなんてできない。
頑張って優良点といわれる「80点」を取るのがやっとだった。
テストなんて相対的なものなので「100点」なんて取らなくていいのに、なぜだか完璧にやろうとするのが人間。
そして、それが達成できなかったときにひどく落ち込む。
特に「100点」を取れるチャンスがあったときにケアレスでミスしたようなものがあれば、自分よりも点数が悪かった人たちよりも落ち込んでいるかもしれない。
少し前に脳科学者の茂木さんと、陸上の為末さんと、サッカーの本田さんが対談している動画を見た。
そのときに本田さんが日本の教育について語っていたシーンがあった。
(この動画はその部分だけを切り抜いたものだが、全体の流れからもとても面白い話題が多く、時間があればすべて見て欲しいです)
そもそも子どもにやらせる「漢字ドリル」は何が目的なのか。
漢字を覚えるということについて何度も繰り返し書くという行為が適切なのか。
「メンタルを鍛える」という目的ではないのか。
こういう激しい言い回しは賛否両論あると思う。
ただ、これは賛否で表すものではなくて、旧態依然で引き継がれているものをそのままにしていいのか?という問いだと思う。
もう一度考え直してみてもいいんじゃないの?
「昔からそれでやってきているから」という思考停止で本当にいいの?
そんな風にボクはとらえた。
テストというのは、「100点」を取るためのものではない。
そもそも、勉強自体が「100点」を取るという目標に向かってしまっていて、目的がズレてしまっている気がする。
本来『学ぶ』という行為は楽しいことのはず。
楽しくなければ続かないのは当たり前。
なにかに必死になっている人たちは『学び』という一見大変そうで嫌になってしまいそうな行為なのに、苦しくも楽しみながら続いている。
ジブンが生きていくうえで、幸せになるために様々な選択肢を増やすために『学び』はある。
その結果、腕試しのテストで「100点」を取ることはあるのかもしれない。
けれでも、それは本質ではない。
ボクたち大人がもっと子どもたちにそれを伝えていかなければならない、というより、伝えてあげなければ子どもたちがかわいそうだ。
目的を見据えた逆算を
詰め込み教育で生きてきたボクも、どこかでこれに気づいた瞬間があったのだろう。
ただ、前回の記事にもあるように【変化】はグラデーションなので気づかない。
なにかをアウトプットするときも、なにかを腕試しするときも、完璧であることを求めようとするあまり、ジブンの能力とのギャップに落胆することがある。
そうならないようにもまず、『目的』を見据えること。
そしてそこから、なにが必要なのか『逆算』をすること。
この2つが重要になる。
ボクが国家試験を受けたとき。
(といってもそんなに大したものではないが)
まず、期間を決めた。
半年。
半年やって合格する。
そして参考書を買い【資格を取る】という目的を見据えたときに必要なものは、「全科目で60点以上」というものだった。
すべてを理解し100点である必要はない。
限られた期間の中で、6割を理解する。
そのアウトプットが試験であるため、過去問を集め、実際に6割に達するまで何度か繰り返し行った。
結果は合格。
もちろん、試験問題の運もあると思う。
ただ、完璧にしようと思っていたら時間も足りないし、キャパオーバーになることは明らかだった。
ある科目は60点ギリギリだっただろう。
それでも、【資格を取る】という目的を見据えたときに、60点だろうが100点だろうが結果は同じ。
ボクの目的は首席ではない。
ここ結構大事。
求められているものが「何点」なのか
仕事では成果物をアウトプットすることが多い。
そのときにボクらは
できるだけ完璧なものをつくろう
としてしまう。
これは『目的』として正しいのか。
それをしっかりと理解しなければならない。
もしかすると納期が一番大切なのかもしれない。
もしかするとたたき台レベルでいいのかもしれない。
もしかすると図解などはいらず文章だけでいいのかもしれない。
なんとなく取り組み始めると、完璧なものをつくり、周りの人を驚かせたいという気持ちが沸いてくる。
けれども、それはエゴであり求められているものと合致しない可能性は大いにある。
ボクはそういった経験を何度もした。
なのでいまは、「60点」くらいのものを生み出すようにしている。
これも相対的なものなので、ボクにとっての「60点」は相手にとって「80点」かもしれないし「40点」かもしれない。
「80点」だった場合は、少ない労力で喜んでもらえるのでどちらにとっても喜ばしいことだし、「40点」だった場合は、もっと仕上げていかなければ満たすことはできないんだと、求められているレベルがわかる。
仮にそのときに「こんなものしかつくれないのか」と思われたとしても、伸びしろはあるだろうし、ジブンの全力ではないので、次はジブンの全力をぶつければいい。
大切なのは『目的』で、それを達成するために邁進することなのだから。
完璧にこなせた方がそりゃカッコイイし、みんなそこにいきたいのは間違いない。
それでもボクらは日々たくさんのものをこなしていかなければならない。
そんなときには
完璧であることより目的が大切
なんだと思えればもっと楽に楽しく生きていける。
noteもいつも、ガンガン書いていって後から見返すと内容がつながっていなかったり、誤字脱字がひどかったりします。
それはボクが「60点でいっかー」と思っているからです!
読みにくかったらすみません。
まあ、後で直せますしね笑
いっつもそんな感じでーす♪
GOING MY WAY.