楽屋で、幕の内。|聞き書き損ねたじいちゃんの話 May.5

この前の年始の話である。父に会ったら確認しようと思っていたことがあった。父の父、つまり私の祖父は戦時中、南の島へ行っていたと聞いたが具体的にどの島だったのか。第二次大戦の本や資料に触れる機会は何度もあったのに、身近に体験者がいる事実を私は受け止められないまま大人になった。子どもの頃は恐ろしくて戦争に目を向けられなかったのである。しかし林芙美子の『浮雲』や寺尾紗穂さんの『南洋と私』を繰り返し読むうち、私も向き合わなくてはと思うようになってきたということもある。

そして親戚一同集まった正月の茶の間で、私は父に尋ねた。その答えに驚いた。なんと南の島は私の勝手な思い違いで、実は満州だったという。小学生の頭では満州が理解できず、なんとなく南の島なんだと思ったのだろうか。さらにそれだけに止まらず、なんとシベリアに抑留されていたという。まさか、今の今まで知らなかったとは。本当、じいちゃんに申し訳ないと思った。劇団四季の『ミュージカル異国の丘』はシベリア抑留について、私が深く触れることになった最初の作品だったが、舞台上、極寒の地で作業をする日本兵の描写がまんまじいちゃんだったとは。

話の続きで父はいった。「親父は戦争が終わっても何年もずっと帰ってこんかったもんね」。そういえばその話はなんか聴いたことがある。ばあちゃんが話していた。「もう死んだと思っていたら、ある日ふっと帰ってきた」と。

戦争から帰ってきてから地元の企業の工場で働き、野菜を作っていたじいちゃん。年金をもらえるようになるとパチンコで大金をすっていたじいちゃん。好きなことをしているように見えて、口数は少なかった。私は年が明けて自宅に帰り、じいちゃんの在りし日の姿を思い出していたとき、ふと気づいた。元から無口だったのではなく、戦争の経験がじいちゃんを無口にした側面もあったのではないかと。昨年は戦後75年で戦争経験者の方のインタビュー記事を数多く読む機会に恵まれた。なかには「思い出したくなくてずっと黙っていたが、余生少ない今になって伝えなくてはと思い、話すことにした」と話してた方がいたを思い出した。

小学4年生ぐらいのとき、学校の宿題で祖父母に戦後の話を聞いたことがある。祖父母の家は私が育った家のすぐ裏にあって、夕方、私が行くとちょうど相撲中継を見ながらの夕食が終わったころだった。宿題のテーマは戦後どうやって暮らしを再建したのか、苦労話を聞いてこいだった。私の故郷は九州の太平洋に面した小さな町で、家から歩いて30分も行けば砂浜に着く。じいちゃんとばあちゃんはそこに海水を取りに行っては、天日で乾かして塩にして売ったといった。重かっただろうと想像はしたけれど、なぜか拍子抜けしたことを覚えている。

そのときもよく喋っていたのはいつもケラケラと大声で笑う大柄なばあちゃんで、じいちゃんは体すべてをテレビに向けていたっけ。ばあちゃんがじいちゃんに何かを聞いても、「うん」とかしか言ってなかったはずだ。そして今熱く心に湧き起こってくるのは「戦争について話して」と孫にいわれ、じいちゃんは何を考えたか、何を思い出したのかということである。

まったくまとまっていないのだけれど、この正月に起こったこと、浮かび上がってきた私の記憶の断片を残しておきたくてこのnoteに書いた。重ねていうけれどシベリアへ抑留された事実を認識していなかった自分を恥じる(ほんと、何やってたんだろ)。もっと知らなければ。

述べたようにじいちゃんは無口だったけれど博学で、時折、ぽつりぽつりと教えてくれる物事は、私の子ども時代の世界を広げてくれた。父がいうには、「ああいうシベリアの環境のなか、最後までで生き残るのは(いつも体を駆使している)百姓が多かった」と話したということもここに書き留めておきたい。



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