7月某日

昨夜はジャーナリストの江川紹子さんとノンフィクションライターの石戸諭さんの対談を視聴した。短い休憩を挟んで3時間、ほぼぶっ通しの濃密な時間であった。ともに新聞記者出身であり、今の報道に憂いをもつお二人である。首相会見や数々の取材現場に置かれる記者の現状について、思うところを自由に言い合っていた。報道の現在地を少し垣間見れたように思う。

もっとも興味をひかれたのは、二人の意見が交差しなかったところだ。広い意味にはなるが、記事を書く際のスタンスといえるだろうか。かつては伝える材料を集めて記事として提示すればよかったが、今の読み手はその記事の意味するところを読み取れない、と石戸さんは言う。この記事の意味はこうですよ、と指し示す必要があると説くのである。対して江川さんはあくまでも記事は材料を届けるにとどまり、読み手に考える機会をあたえるべきだと繰り返し主張していた。また、報道において社会に光をあてる“照明係”と、起きた事を書き残す“記録係”が必要というくだりで起きた小さなブレイクも見逃せなかった。石戸さんは「記録係は今もいますよね」(予想だがSNSなどを思い浮かべたのではと思う)と問いかけたが、江川さんは頷かなかった。残されるべき真実がもっとある、足りていないとお感じになっているのだろう。

批評と誹謗中傷は違う、世の中を見渡すと現状はその2つがごっちゃになっているという話もあった。人格を貶めるような書き込みや発言は問題外であるが、批評については対話を通じてどんどんするべきであると私も思う。答えは2つのうちのどちらかとは限らない。グレーゾーンに納まることを心配しなくていいのである。

江川さんが新聞記者になるまでのエピソードは微笑ましく、温和な人柄が見え隠れするようだった。地方紙を褒め、地方で新聞を作りたいという願望を語ってらっしゃった。早期の実現を願う。

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