楽屋で、幕の内。|依頼は断らない Aug.4
20代後半でフリーになってすぐに教えてもらったことがある。どんな仕事も断らないこと。そう言ったのはグラフィックデザイナーの元同僚だった。185cmの長身で黒縁眼鏡の彼はその2年前からフリーで、同じ年なのに随分大人びていた。どんな仕事でも?と訊くと、「どんな仕事でも」と彼。やったことがないジャンルのものでも? と念のため訊く。「やったことがないけどできますと答えたらいいよ、方法は後から考えればいいから」と言った。
少し不信に感じたがそんなものなのかと思いながらスタートを切った。アドバイスが自然に作用したのか、ひとつずつの案件に対応するうち、有難いことにすぐに忙しくなっていった。取材やインタビュー、パンフレットのコピー、企画案など幅広く、大量に携わらせてもらった。
日中は取材や打ち合わせに駆けずり回り、移動のカメラマンさんの車中で別の媒体のアポを取り(カメラマンさんいつもすみません)、帰宅後の夜中に原稿を書いていた。スケジュール帳は1日の流れをたっぷり書ける大判のものに買い換えた。
そんな日々が数年続いたある晩、彼から電話があった。海沿いのマンションを買ったので移転ハガキを出したい、ついてはコピーを書いてほしいと言った。“マンション 海 買う”というワードに私はクラクラした。お安い御用と請負ながらも、思い切ってふっと湧いた疑問をぶつけてみた。いつか私もそんなふうになれるかしら?と。彼には元々の蓄えがあったのだろうとは思ったが、このまま私もフリーをやっていればそんな未来もなくはない、と言って欲しかったのだろう。
仕事は充実していたが振り返りが十分できないほどの忙しさに、もしかすると出口が見えなくなっていたのかも知れない。前回の休みが思い出せないほど休んでおらず、経費は出て行くばかりでお金は思ったより残らない。毎週金曜の夕方に、とあるオフィスで打ち合わせしたその足でデパートに立ち寄り、着もしない服を買うことをストレスのはけ口にしていた。
そんな私の話を一通り聞いた彼は、「なんでそんなことになってるの?」と言った。あなたがなんでも受けろと言ったからよ、と驚いて返した。すると彼は爆笑しながらこう言った。「それはフリーになって最初の半年か1年の話だよ。まあ、でも今のスタイルが君に合ってそうだからいいんじゃない?」。まさかまだ続けているとはね、とあっさり言った。
最初のうちは依頼はどんどん受けるが、軌道に乗ってきたら利益率が高いものや自分が好きなものだけに絞っていく、というスタイルが王道で、それを薦めたつもりだったらしい。ビジネス目線でいえばそんなの当たり前なのだろうが、私はごっそりその視点が抜け落ちていた。利益率?そんなの考えたこともなかった。
しかし、だ。私は勘違いをして違うレールをひたすら走っていたことになるけれど、彼の言葉を信じて走った私はお陰様で今も元気だ。仕事も楽しい。彼はあの言葉で私のライター人生に魔法のようなものをかけてくれたように思う。ディレクターの失踪や金銭の不払い、制作物が発行されず日の目を見ないなど、大変なことも一度や二度ではなかった。でも私の力量不足もあったはずだ。時間が過ぎれば経験はなんでも財産だ。
その彼には長く会えていない。次に顔を見たらこのお礼を一番に言わなくては。
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