映画『マンチェスター・バイ・ザ・シー』を観て

 人は他人の力では癒されない。自分を救うのは自分だ。映画「マンチェスター・バイ・ザ・シー」は忘れようと思っても忘れられない、心の傷を抱えた人の物語だ。

 主人公・リーは、兄の死をきっかけに生まれ育った街、マンチェスター・バイ・ザ・シーへと戻ってくる。兄や両親、そしてかつての妻や子供達と過ごしたわが故郷だ。街の人は遠巻きに見ながら彼の噂をする。彼はかつてこの街で悲惨な経験をしたのだった。

 人は自分が犯した過ちに対して、罰を受けたり、人から羨まれたりする方が楽になるはずだ。その事件をきっかけに、彼は妻から距離は置かれるものの、刑事的な処罰を受けることなく、日常へと戻されてしまう。彼がそこからどういう行動をとったのか、細かくは描かれてはいないが、どんな思いで日々を過ごしてきたのかを考えると胸が締めつけられる。

 彼は事件のあった生まれ故郷からこの日までしばらく逃げていたことになる。だが、その距離は車で1時間半の場所だ。広いアメリカだ。国内でも遠くに逃げることはできる。地球の裏側にだって行ける。それなのに1時間半。この微妙な距離関係がいつまでもかさぶたができない、ジュクジュクとした傷口のようなものをイメージさせる。

 彼はおそらく敢えてこの場所を選んだのかとも想像できる。一定の距離は計りつつも、思いのある土地と近くにいたい。家族や友人がいる土地と。もう生きる意味など自分にないのだけれど、あるとしたら、多少は近い場所であの土地に横たわるように生きていたい、そう願ったのではないだろうか。

 この映画では、リー以外にも傷を受けた人がたくさん出てくる。というか傷ついた人ばかりだ。それは痛いぐらいに。他の映画のように、軽く表立って「大丈夫だよ」と声をかけるような人はいない。だからこそ、皆が大なり小なりの傷を抱えて、自ら消化していく経緯がくっきりと見えてくるところが素晴らしい。

 彼らを助けてくれるものがあるとしたら。景色だ。街から見える海や家々、人の営み、海に浮かぶ船や飛び交うカモメ。それら風景が壊れた彼らの心を優しく包む。事件が起こる前も今も、景色は変わらずそこにある。人の言葉よりもモノを言わない自然が助けになる、そんなことって現実にもあるのではないだろうか。

 リーは、街で元妻とばったり出会う。立ち話の最中、リーはいう。「僕は乗り越えられていない」と。観客も一緒にようやくこのシーンで息ができるようになる。“乗り越えられていない”。そのことに気づくことが癒しへの始まりだから。


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