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彼の愛

前書き

 主催者様から許可をいただきましたので、2022年度海鷹祭にて開催された海洋大総合創作誌発行企画にて寄稿しました作品を公開します。

しぐれ

本文

 8月も終わりに差し掛かった金曜日の、蝉も寝静まった時間帯。道華は、重たい体を引きずりながら家路を辿っていた。とっくの数時間前に太陽は姿を消したにも関わらず、熱気が収まる気配は一切感じられない。今週最後の仕事を終わらせた帰路、ただでさえ疲労困憊だというのに、追い打ちをかけるかのように服が汗で肌にへばりついてくる。今にも動きを止めてしまいそうな足に、止まればそれだけ家に帰るのが遅くなるぞと鞭を打ちながら、一歩ずつ確実に歩みを進めていた。
 そんな調子を数分続けた後、アパートの三階の一角に位置する自室の前にようやく辿り着いた。扉を開くとその瞬間、ふわり、と心地の良いエアコンの冷気が体を通り抜けていった。服に染み込んだ汗も相まって、少しの寒さすら覚える程だ。道華は、この時代に生まれてよかったと実感しつつ、未だ履きなれない革靴を足から外して、家に上がる。
 目隠し用のカーテンを抜け、明かりがつくと、部屋の全貌が顕になった。
 質素な家具でまとめられた、少し広めのワンルーム。机の上には、昨日使った食器が片付けられないまま放置されている。衣装ケースは乱雑に詰められた服のせいで閉まらず、開けっ放し。小さなゴミ箱は既に容量過多で、入りきらなかったゴミがその足元に少しこぼれてしまっている。
 そんなお世辞にも綺麗とは言えない部屋の状態には脇目も振らず、道華は部屋の奥に設置されたベッドへと飛び込んだ。
 「疲れたー……」
 全身の力を抜いて、疲れた体をベッドに沈みこませていくこの瞬間が、道華は好きだった。

 「おかえり、道華。今日もお仕事お疲れ様」
 「ただいま。ありがと、栞太」
 労いの言葉をかけたのは、恋人の栞太だ。付き合い始めたきっかけは、学生時代、初めて出会ったときの道華の一目惚れ。優しそうな笑顔に、道華の心は射止められてしまった。
 ゴロンと体を半回転させて上を向き、首だけ動かして顔を栞太の方に向ける。目が合うと、栞太は出会った頃と変わらない柔らかい笑みを浮かべる。それにつられて道華の顔も綻んだ。
 「今日も暑かったな」
 「ほんとにね。日中はともかく、夜も灼熱地獄でさ、帰ってくる途中死ぬかと思った」
 さっきまでいた外の暑さを思い出して、辟易する。
 と、道華はあることに気がついた。
 「……っていうか、栞太はずっとここにいたんだから、外の暑さ知らないでしょ」
 「いやいや、そんなことねーよ。今日も最高気温40度超えたってニュースで――」
 「あー、はいはい。わかったわかった」
 少し意地悪に栞太の言葉をあしらうと、困ったような顔をしてへへっと笑った。こういう所も、可愛くて好きだった。

 そんな他愛もない会話を続けていると、「ぐうう」と道華のお腹が大きな音を立てた。
 「おっと、ご飯食べないとだな」
 「うん。何にしよっかな」
 思い返せば、昼食以降ほとんど何も口にしていなかった。さっきまでは体の疲労でそれどころではなかったが、しばらく休んだことで食欲も復活したらしい。
 何を食べようかと考えていると、ふと今日の昼の会話が頭をよぎった。同僚の友だちが、先日とても美味しい冷やし中華を食べた、という話をしていたのだ。そのことを思い出して、道華も冷やし中華が食べたくなってきたが、材料はあっただろうか。
 「冷やし中華作れるー?」
 キッチンの方へ、少し大きな声で呼びかけると、その数秒後、ガタゴトと音が聞こえ始めた。どうやら大丈夫だったらしい。


 「道華、今日元気ないな。大丈夫?」
 冷やし中華の完成を待つ間、ベッドの上でゴロゴロしながらスマホを弄っていると、不意に栞太がこう切り出してきた。
 「……なんで?」
 正直、図星だった。
 「声のトーンがいつもよりちょっとだけ低かったからさ、何かあったのかと思って」
 なるほど、そういうところにも気づいてくれるのか、と少し感心してしまった。
 道華は今まで、職場のこととか、友だちのこととか、人生のこととか、とにかくたくさんの愚痴を栞太に聞いてもらっていた。栞太は聞き上手で、一通り愚痴を吐き出し終わるともうどうでも良くなっていて、そんな風に、道華は栞太に救われていた。
 しかし、今回ばかりは栞太に相談するつもりも、知られるつもりもなかったのだった。
 「なんでもないよ。大丈夫」
 声のトーンを意識しながら、寝返りを打って栞太に背を向けた。
 「……嘘だな。なんかあっただろ」
 「ほんとだって。何もないから」
 少しの煩わしさを覚えつつ、ちらりと栞太の方に視線を向けると、じっとこちらを見据えていた栞太と目が合った。
 しばらくそのまま見つめ合っていた二人だったが、ついに折れた道華が「はぁ」と大きなため息をついた。
 「まあ、ね。ちょっと仕事で色々あって」
 もうこれ以上隠すのは無理だろうと、曖昧な返事であしらおうとする。
 「そっか」
 栞太も、それ以上の詮索をすることはなかった。
 「まあでも、嫌なことがあったらなんでも言えよ? 溜め込んでも辛くなるだけだしな」
 道華は、自分の中で、何かが外れる音がしたのを感じた。

 なんでも言えよ。

 栞太が口にしたこの一言は、純粋な親切心からきた慰めの言葉で、いわゆる言葉の綾だった。しかし、このときの道華にとっては、心の奥底に閉じ込めていた本心が解き放たれるきっかけとして十分な一言だった。
 「……じゃあ、抱きしめて欲しいな」
 「えっ……」
 ポロリ、と口から零れ出る。
 「ギュッて。栞太の体温を感じさせてほしい」
 一度口をついて飛び出した思慕の念は、とどまるところを知らなかった。
 「隣同士で肩を寄せ合って座りたい。一緒に手を繋いで歩きたい。頭を撫でて慰めてほしい。キスしてほしい! 優しく身体を触ってほしい!」
 叫ぶように。祈るように。すべてを吐き出していく。
 「ねえ、抱いてよ……」
 嗚咽混じりの呟きとともに、道華は布団に顔をうずめた。
 「…………ごめん」
 栞太は、それ以上の言葉をかけることができなかった。
 「お願い、ちょっと一人にさせて」
 「わかった」
 栞太のホログラムを投影していたプロジェクターの明かりが消える。部屋の中に、道華一人だけが残った。


 2053年8月23日。今からおよそ1年前のその日、栞太はこの世からいなくなった。通勤途中に起きた、不慮の事故だった。その後しばらく、道華は一人自室にひきこもり、仕事にも行けず、ある日突然消えてしまいそうなほどに憔悴しきっていた。
 そんな姿を見かねた栞太の両親が道華に贈ったのが、生前の息子をもとにつくられたAIだった。
 電脳空間に生きる栞太はまるで本人そのもののようで、生前と同じように話し、笑い、時には泣いたりもした。
 道華は、再び栞太と話すことができるようになると徐々に元気を取り戻し、事故から半年が経った頃には、仕事に復帰するまでに回復していた。


 「ごめんね。栞太はなにも悪くないのに」
 しばらくして、道華は落ち着きを取り戻した。
 「今日、上司に怒られたときにね、栞太のこと言われたんだ。死んだやつのことばっか考えやがって。どうせ抱いてもらえないクセに、って。サイテーだよね」
 職場での出来事を思い出す。憂さ晴らしで地雷を踏み抜かれたことに腹が立った。
 「けどね、私も思うんだ。いつかは一人で生きていけるようにならなきゃって。このままじゃダメだって」
 上司に言われたことを完全に否定できない自分がいることに、道華は気づいていた。
 「でも……私、栞太のこと大好きなの。ずっとこうして、二人で生きていきたいの」
 楽しい思い出の中では、いつも栞太がそばにいてくれていた。
 「どうしたらいいの……?」
 悲痛な呟きは、静かな部屋に広がり、溶けていく。
 冷やし中華の完成を告げる自動調理器のブザーが、鳴り響き始めた。

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