夜の強い風

懐かしい匂いが吹く
春の訪れだと感じられる。
もう何年も忘れていた感触なのに
ベランダに出ると押し寄せてくる気持ち

”何をしているのだろう”

先行き不安な春を待つ季節に、あの時確かに俺は
前が見えなかった
でも自分の感触を、触感を、感覚を信じずにはいられなかった。
研ぎ澄ます気なんてなかった。
たぶん生まれつきのもの。取り替えられない。
涙があふれることも、
言葉を紡ぐことも、
たぶんそれは前世からの才能。おとぎ話。

  ★    ★    ★    ★

確かにあのころ、’85~’87の俺は色に、音に、指先に哀しかった。
どんなに求めても求められない。なのに充足しなければならない。
カンガルー。神戸。美也子。何もかもが路を隔てた向こうで弛んでいた。
煙草の吸い比べ。パートナーは合わなかった。
深夜、エアブラシを握って色を調合する。
こんなこと、発現のためにしかならない。
鋭すぎる感覚の発現なんて、この世に生きていく何のたしにもならないのだ。

みんな何を考えているのだろう
マニュアルを何処から手に入れるのだろう
それで満足なのだろうか
歩きたかった。

空気が春だ。
少し前は花粉と花の匂いがしたような気がした。たぶん幻覚だろう。
今の自分には何を吸いとることも、何を吐き出すこともない。

純子。

バイクで走れたなら、もう少し違う空気を感じたかも。
容赦なく襲う難航の味付きの空気。壁。

OVA、オリジナルビデオアニメの主題曲。和子。
そんなことに出会うなんて考えもしない。思いつきもしない。感じもしない。
何になるというのだ。

そのころ思っていた。
酒はおいしくない。
煙草もうまくない。
全て、この世を忘れるために身体に注ぎ込んで行く。
ひどい目にも遭っていないかもしれない。いや、きっとそうだ。
今、このときも。
いつまでも続く命題をパスカルの時代から受け継がれてきて
都会の喧噪に紛れて身体を支える茶髪の未成年たちには気づきもしないこと

紀伊国屋。本の匂い。努力。嫉妬。自己嫌悪。
あふれてくる太宰治の目。泣けない。
泣けない。

  ★    ★    ★    ★

あやしい色の高架道路のランプ。
川の水面とアスファルトの距離をたとえ話にする。
神崎川。正路丸。
マラソンをする女子高生。バックに夕日と高層住宅。
シフトペダルに泥が少し付いている。
黒電話。夕飯。
眠たくなることがたぶん逃避なんだろう。
白いシーツとナースの衣装。
白い染みがエロティックに見える。
かなり長い間、佇む。
とりあえず、佇む。
やがてフェリーが出て行く。
足元の草は申し訳程度の道路脇の植樹の土に生えている。
ポカリスエットをかける。
夏が来るかもしれないと思った。
安手のジャンバーは少し寒かった。

  ★    ★    ★    ★

ギターはレスポール
黒塗りの訳あり(¥10,000)だった。
エフェクターはDistotion X
脳髄の消えそうで消えない音を表す。粘っこい。
かなり長い間を生きるのか。
太宰、おまえは。どうしたんだい。
水は冷たかったかい。
愛を感じたかい。

長戸プロデューサーが俺に向かって言う。「東京に来い」
B’zもWANDSも大黒真樹もまだデビューすらしていなかった。
俺にはなにがあるのだろう
八木さんは元気だろうか
弁護士のあの人と結婚しているだろうか
黒く長い髪はその時のまま自分の心の陰だ。
未だ解けない命題
何のために生きているのか
何のために生きなければならないのか

側には誰もいない
俺は独りだ
オンナもいらない
友達もいらない

俺は独りだ

  ★    ★    ★    ★

もうすぐ満月。
狼と羊が対峙する。

1996,03,31 01:56 春の空気に我を忘れて

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