歪められた学位・学問と美・文化・伝統・誇り

上記、フォーブスの記事で、極めて重要なことが書かれている。かなり長い文章なので、私の読み取ったことを、「単純化」のそしりを恐れず書くと、「資本主義、拝金主義のせいで、美や伝統、ブランドが歪められた」ということだ。本来は、ラグジュアリーは、上質な、職人がつくったものばかりであった。今や、バングラデシュなどの新興国で製造され、しかも劣悪な環境で労働者は職人としての「誇り」を持てない。ある種、富裕層が途上国の労働者を「搾取」して、ラグジュアリーを手にする。しかも、その目的は「自分は富裕層である」ことを誇示する、シグナリングとしての役割しかないようだ。

私は別に、お金持ちを否定しない。努力や才能の結果だろう。だが、「お金自体を自慢する」ようになったら、オシマイかなと思う。私が蓄財しているのは、将来の息子のためと、やりたいことがあるからだ。

これは、学位や学歴も同じだと思う。戦前は、予備校というものはなかった。そのため、受験というのはシステム化されておらず、「本物のエリート」が東京帝国大学に入学し、それこそ国家を背負う存在だった。今はどうかというと、予備校のシステムに組み込まれて、「偏差値」という数字を競うゲームになってしまった。これは、ラグジュアリーを見せつけて自慢する富裕層と、偏差値を自慢するのと、似ているように思えてしまう。昔の帝大卒は「国家を背負う」覚悟で進学したのだ。東大だけを批判するのは良くない。慶應も似たようなものだろう。明治の慶應義塾の卒業生たちは、「自分たちが明治日本の企業をつくっていく」という覚悟、誇りがあった。今の慶應義塾の卒業生は、大企業で安泰に暮らしたいだけだろう。令和日本の新しいビジネスを切り開く覚悟は無い。

大切なことは、お金や偏差値ではなく、「文化」「美」「伝統」「誇り」「教養」このようなものだろう。それが失われるならば、ただ承認欲求だけが強い人ということになりそうだ。

だから、私は、ヴィトンやエルメス、カルティエ、などなど、見せつける女性は好きじゃない。妻はそのような女性ではない。メルセデスベンツを自慢する男もカッコ悪い。

「本質」を見抜き、本当に良い物を長く大切に使うことこそが、良きエシカルな資本主義であると思う。

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トーマス・レッド(高学歴発達障害・転職王・アマチュア経済アナリスト・ITコンサルタント)
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