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-さらりとした日々-
例えば、わたしの人生を眺めて、人はどういう風に見ているのかな、見えているのかな。
そういうことも、たまに考える。
まあ、内実は、いつも見つめてるけど、そこはグレーゾーンということで。
日本人は、わかりやすい物語が好きだと思うし、苦労して辛抱して努力して、そして成功する、とか、そういう話も割と好きだと思う。
でも、わたしは、あまりそういう小説は書いていない。
苦しみや憎しみの物語を、あまり書いていないから、そのことについて、少し物足りないと感じている人もいるかもしれない。
でも、日常の日々には、もっとさりげなく、もっと何気ないところに、何気ないものを抱えて、さりげないものを支えて、そして、ささやかなものを背負って、さらっと笑っていたり、ゆるっと微笑んでいたり、そういう人が沢山いると思う。
少なくとも、わたしは、そう感じている。
それぞれの主観の中で、それは、とてつもなく大きなものかもしれないし、そうでもないかもしれない。
だからといっては、変な話なのだけども、そういうささやかな幸せや小さな悔しさみたいなものを、歌とか短歌とか、絵画とか小説に出来たらいいな、とずっと思っている。
わたしの人生を、人がどのように見ているか、それは考えたところで想像の域は出ないし、でも、それでも少しも感じることができる瞬間があるから、わたしは、たまに人の陰口や批判や中傷に、耳を澄ましてみる。
もちろん、そんなことしたら、しんどいし苦しいし、聞きたくないことも多い。
それでも、そんな言葉の端々に、わたしに向かって、面と向かっては、誰も言えない、言ってくれない、ささやかな言葉が隠されていることは、とても多いなと感じている。
それは、厳しい言葉もそうだし、また面と向かっては、照れくさくて言えない温かい言葉も、たくさん含まれている。
だから、わたしは、色んなやさしさを、それなりに丁寧に受け取れたらいいな、とこっそり思っている。
あのときのあの言葉を、誰かが覚えてくれているかどうか、それはわからない。
わたしは、色んなときの色んな人の言葉に救われて、支えられて、助けられて、日々をやり過ごしている。
こんな言葉に、もしかしたら、また誰かが、それは違うんじゃない、と遠回しに言ってくれるかもしれない。
そしたら、わたしは、もちろん、突っぱねる。
とことん、天の邪鬼だからね。
うっせーよ、って突っぱねると思う。
そしてね、来週の頭くらいに、もう忘れてる頃に、こっそり、ありがとう、と受け取ると思う。
そのくらい、わたしは、天の邪鬼だし、やさしさでさえ、こっそり受け取ろうと思ってる。
1年前くらいのささやかな、やさしさを、今になって、こっそり受け取ってるなんて、相手は、実は気づいちゃってるかもしれないね。
そのくらい、色んなことが、繊細になってる、そういう感覚を覚えているしね。
だから、そんなささやかな日々の、何気ない小さなものを、わかりやすい物語とか、伝わりやすい言葉とか、そういうものをさらっと受け流したところにある、ぬるっとした感覚を、大切にしたいな、と思う。
誰かを幸せにする、とか、そんな大袈裟なことじゃなくて、ゆっくりコーヒーを飲むとか、静かにテレビを見てるとか、そんなとき、誰かとたわいもない話をして笑うとか、わたしの呟きを見て、なんだこいつ、死ねよ、と思うとか、そういう日々を、愉しめるように、苦しみも憎しみも笑えばまた愉し、うっせーよ、ばか、消えろよ、とわたしに、エアリプを飛ばしてみたり、そのくらいの日々で、いいんだと思う。
だから、もう、花を咲かせよう、ばかりじゃなくていいよ。
そしたら、わたしが、その隙に、花を咲かせることができるから。
何となく、このnoteを始めてから、文体がキングコングの西野さんに影響を受けすぎてる文体に、なり始めてるんだよね。
もちろん、わたしは、そのことに、始めから、気づいているよ。
だから、始めたばかりの頃に、そういう西野さん的な写真を載せた記事を、掲載してみたのだからね。
それでは、また浮き世の流れる、好日に。
今日も長々とお付き合い、ありがとうございます。
p.s.
色んなものを抱えている、色んなものを背負っている、その中から生まれてくる、ささやかなものには、またふわっと何かその他の香りが漂ってくる、こともあるのかな、そういう風にも思っています。