「卵を置いている毛乳雌豚」 Eierlegende Wollmilchsau アイアー・レーゲンデ ヴォル・ミルヒ・ザオ

 まずは、合成語の「Wollmilchsau」、それも最後尾の「Sau」から始めよう。なぜなら、合成語の最後尾の名詞が規定語になるからである。

 直訳で分かる通り、この言葉は、「雌豚」の意味である。日本語であれば、まずは、「豚」という語があり、これに「雌-」、「雄-」、「子-」を被せれば済むことであるが、ドイツ語、否、西洋語はそうはいかない。ヨーロッパの農業社会では、それだけ、家畜が「人間に役に立つ」動物として浸透していたことを意味するのであろう。同じ農業社会でも、仏教の影響もあり、四つ足動物を食することへのタブー感が明治維新までは強かった日本では当然と言えば当然の言語的規定の枠組みである。逆に、「米」に対する「執着」という点では、ドイツ語で「Reis」(rライス)という男性名詞一言で済むものを、日本語では、「稲」、「米」、「ご飯」と三つの言葉を必要とするのと同じである。また、社会言語学的に見ると、同じ「ご飯」が、男言葉では、「飯(めし)」、レストランではカタカナ書きで「ライス」となる点も日本語の面白いところであろう。

 前置きは以上にして、「Sau」である。まず、語頭のs字は、有声音になるので、「ザ」行音である。また、複母音auは、「アウ」ではなく、「アオ」と発音した方が原語に近くなる。もちろん、女性名詞である。参考に、「雄豚」は何というか言うと、「Eberエーバー」で男性名詞、「子豚」は、「Ferkelフェアケル」で、こちらは中性名詞となる。更に、種としての「ブタ」にも固有の名称があり、「Schweinシュヴァイン」となり、中性名詞である。という訳で、「毛乳雌豚」とは、「ブタ」の一種である。

 次に、「Sau」の前の名詞、「Milch」である。英語との連想で直ぐに意味は想像できるであろう。「ミルク」である。ただ、ch字の発音には気を付けたい。この綴り字は、基本的には「ハ行」の音で発音するものであるが、日本語の「ヒ」を発音する時のように、吐き出す息を口内でよく摩擦させるようにして発音する。故に、「München」も、本来は「ミュンヘン」ではなく、「ミュンヒェン」と発音したいところである。という訳で、「Milch」は、「ミルヒ」としか記しようがないのであるが、「ヒ」は、日本語音よりもっと摩擦させて発音してほしい。

 さて、雌豚は確かに子豚のために「豚乳」を出すかもしれないが、これを人間が飲むとは聞いたことがない。また、チーズにしても「豚乳」を使ったチーズも聞いたことがない。そして、日本人がよく連想するように、「乳」と言ったら、「牛乳」であろう。すなわち、ここで言う「Milch」とは、「牛乳」であり、「Kuhmilchクー・ミルヒ」のことである。つまり、「Wollmilchsau」とは、現実に存在しない想像上の生き物で、言わば、中国の伝説的存在の「麒麟」なのである。ただ、「Wollmilchsau」は、神話的存在ではなく、ヒトの生活に役立つべき想像上の生き物ということになる。因みに、「Kuhクー」が「雌牛」を意味するのに対して、「雄牛」は、「Stierシュティア」、子牛は、「Kalbカルプ」、そして、種としての「ウシ」は、「Rind」(rリント)であることを言い添えておこう。事程さように、ヨーロッパ社会は、牧畜業社会、或いはもっと言えば、畜産業社会であるということである。

 「Wollmilchsau」の頭にある部分は、実は、「Wolleヴォレ」という単語から来ており、合成語にする時にe字が省かれたものである。英語の「woolウール」との近さからも意味は直ぐに連想できるように、「羊毛」を基本的に意味する。つまり、ここでは、「羊」の毛が意味され、更に、雌雄の差異は問題にはならない。すなわち、「Wollmilchsau」とは、理想の家畜であり、毛が取れ、乳も出、そして、大きくなったら肉にも出来る、そのように有益であるはずの家畜動物なのである。

 しかし、これだけでは有益性は足りずに、更に、「Eierlegendeアイアー・レーゲンデ」と形容が付く。ドイツ語で「卵」は、「Eiアイ」で、その複数形が、「Eierアイアー」である。動詞legenは、本来、「置く」の意味で、「卵を置く」を意訳すると、「卵を産む」の意になる。これに「何々している」の意味を加えるために、語尾の-deを添えると、Eier legendeと分かち書きをしてもいいのであるが、これは、固定した言い回しなので、「Eierlegende」と続けて綴り、しかも、語頭も大文字にしてある訳(わけ)である。こうして、雌鶏の卵を産む要素が加わり、「Eierlegende Wollmilchsau」は、ブタ、ウシ、ヒツジ、ニワトリの四種類の動物の有益性を一匹で兼ね備えた「完璧な」家畜となったのである。

 一方、日本人にも馴染みのグrリム兄弟の童話(Märchenメアヒェン)の一つ「ブレーメンの音楽隊」も、ニワトリ以外、ロバ、イヌ、ネコと動物の種類が異なるのではあるが、やはり四種類の動物達で、これで一匹の「化け物」を体現するのであるが、その話しの切っ掛けは、人間にとって、もはや有益ではなくなった家畜達が共に協力するという点である。

 この、人間にとっての有益性に焦点を置いた、想像上の生き物が現実に存在するものではないことは明らかであるが、それでは、なぜ、このような言い回しがドイツ語にはあるか。そして、それは、どのようなドイツ語の文脈において使われるのであろうか。

 この言い回しが出てきた時期は、比較的新しく1950年末であった。この時は、雌牛なしで、三体の動物の合体として、あるユーモア詩集の一説として登場した。西ドイツの50年代と言うと、敗戦国の「奇蹟の経済復興」が軌道に乗り、技術革新で西ドイツ社会が益々発展していけるという気分がより強くなっていた時代である。家畜に関しても、「品種改良」をすれば、より生産性の高い「種」が育成できるという考え方もより強まっていた時代であったとも言える。こうした時代背景もあり、理想的な家畜「Eierlegende Wollmilchsau」も、それ程までに完璧ではないにしても、当時は、そのようなものの存在に一定の現実感があったのではないかと筆者は想像する。

 それが、約十年後の1960年代末には、より完全な四体の動物の合体版として、そして、ドイツ語の慣用句として認識されるようになる。しかも、「雌雄合体」の生き物として、どちらにも決められず、中途半端な存在として、否定的な意味合いを持たせられた言い回しになっている点が興味深い。こうして、この慣用句は、ドイツで権威のある辞書Dudenドゥーデンにも採用され、現在でも日常語して使われる慣用句となっている。Dudenの、その定義によると以下の通りである:

 「一見して、ただ利点のみを有し、すべての必要を満たし、すべての要求に適合するようなもの、人、乃至は問題解決案」を指し、それ故に、非現実的であるもの

 Dudenには、であるから、そのようなものには気を付けようとまでは書いていないが、「Eierlegende Wollmilchsau」とは、日本語の文脈では、「うまい話し」に対応する言い回しと考えていいようである。逆に、日本語の文脈での「うまい話し」は、ドイツ語の文脈では、「理想的な」、今日的な言いようでは、遺伝子操作をされた「スーパー」家畜動物として表象されることに筆者は興味を覚える。手放しの未来主義的な技術革新礼賛には溺れない、その背景にはキリスト教倫理が存在する、遺伝子操作技術に対する懐疑は、ドイツ社会には今でも強いことをここに言い添えておこう。

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