女子サッカー [3] der Frauenfußball(デア フrラオエン・フースバル)[3]

 筆者の22年9月19日の投稿「女子サッカー [1]」では、ドイツ女子サッカーの歴史、つまり、「淑女蹴球」の誕生から1980年代末までの、ドイツにおける女子サッカーの制度的整備の歴史を書いた。9月27日の投稿の「女子サッカー [2]」では、1989年から2016年までの、ドイツ女子サッカーの「黄金時代」を語った。この時期には、ドイツ女子サッカーは、EM(ヨーロッパ・カップ)で8回優勝し(その内、6回の連続優勝)、WM(ワールド・カップ)で2回優勝を飾り(ゆえに「二つ星」)、さらに、オリンピック銅メダルの「ハットトリック」後、2016年にはオリンピック金メダルを獲得している。

 この「黄金期」の後、ドイツ女子サッカーは、一時的な「臥薪嘗胆」の状態を強いられることになるが、現監督のM.Voss-Tecklenburgフォス=テクレンブルクの下、22年の夏に、コロナ禍で一年延期されていた女子サッカーのEMロンドン大会で、そのSommermärchen「ゾマー・メルヘン:夏のメルヘン」を味わう。それでは、今回は、この「サマー・メルヘン」の事の次第を話そう。

 Sommermärchenという言葉は、まずは、der Sommerデア ゾマーという男性名詞とdas Märchenという中性名詞からなる合成名詞である。Märchenという言葉は、グリム童話との関連で、日本でもよく知られているドイツ語の単語であるが、発音として見れば、「メアヒェン」と表記したい言葉である。変音äは、日本語の「エ」に似ており、r音は、音節の〆としては、「エrル」ではなく、ア音となるので、「メア」が原語の発音により近くなる。さらに、ch音は、強い摩擦音の「ヒ」音で、これに直ぐに「エ」音を続けるので、「ヒェ」と表記すべきである。南ドイツのバイエルン州の州都Münchenも、ゆえに、ミュンヘンではなく、「ミュンヒェン」と記したいところである。

 さて、この合成名詞は、もともとは、男子サッカーに絡んでよく使われるようになった言葉である。

 ドイツの男子サッカーのナショナルチームは、1990年のWMで三回目のワールド・チャンピオンシップを獲得すると、それ以降、世代交代を先送りにした結果、次第に、じり貧状態に陥る。EMでは、90年のWM優勝チームのメンバーが大方残っていたこともあり、1992年に準優勝、96年に優勝をもぎ取るが、WMでは、1994年と98年はベスト8止まりであった。最低でもベスト4入りという「サッカー大国」ドイツとしては、あり得ない成績である。

 さらに、2000年のEMでは、予選は通過したものの、グループ戦を勝ち抜けず、グループ戦最後の、対ポルトガル戦では、すでにグループ戦一位を決めていたポルトガルがBチームで当たってきたのに対して、それでも0対3で惨敗するという「煮え湯」を飲ませられることになる。ドイツは、その四年後のEMでも同様の運命を辿り、ドイツ国内で育て上げた若手選手の養成が急務であることが叫ばれる。

 そういう中、2002年の、韓国と日本の共同開催となったWMでは、ドイツは、予選段階ですでに「難行苦行」を重ね、グループ戦は通過も出来ないのではないかと危ぶまれていたのであったが、大会が進む中で団結力を強めるチーム・スピリットと、ドイツ的「鉄の意志」を体現するゴールキーパーOliver Kahnオリヴァー・カーンの好守備、そして、運の強さも嚙み合って決勝戦まで進む。ドイツは、この年の優勝国ブラジルの反対側のトーナメント表にあって、同じ側の韓国が強豪のイタリア、スペインをベスト16戦、ベスト8戦で降してくれており、その韓国を準決勝で辛くも破って決勝戦に進出したのであった。この大会で、若手選手が次第に頭角を現し、これが、ドイツで初めて開催される、2006年のWMの結果につながることになる。

 大げさに言えば、ドイツ男子サッカーの「危機」の時期の真っ只中たる2004年にナショナルチームには、しかし、「難産」の末、新監督が生まれていた。Jürgen Klinsmannユrルゲン・クリンスマンである。1990年にワールド・チャンピオンに、1996年にはヨーロッパ・チャンピオンにもなっていた彼は、フォワードとしての現役選手生活から退いた後、トレーナーの資格は取っていたものの、DFB側からは、監督としては未だ経験不足と見なされていた。それで、結局、紆余曲折のあと、彼にさらなるスタッフを付けて、共同トレーナー、チーム・マネージャーで「補強」することにする。このクリンスマンを中心とするトレーナー・スタッフが、若手選手投入に重点を置いた、しかも、負ける危険を重々承知での、しかしながら、オフェンスに早く展開するスピーディーな試合展開を好む、ドイツの、これまでの守りに重点を置くサッカー・スタイルに対して、新しいゲーム展開のスタイルを持つナショナルチームを作り上げて、対外試合に臨んだ。

 この改革は、2006年のWMに向けての練習試合では中々その結果を出せずにはいたものの、開催国の特権で大会参加が保証されていることから、ドイツでは、大会での好成績を期待せずに、大会の日程が始まった。6月9日から戦われたAグループ戦では、ドイツは、意外にも3戦3勝のグループ一位でグループ戦を通過する。6月24日からのベスト16戦では、対スウェーデン戦を2対0で勝ち、ベスト8に進出する。6月30日には、ブラジルと並ぶ南米の雄アルゼンチンとの試合が行なわれる。この試合では、ドイツは、後半すぐに1点を入れられるが、80分に同点を入れて、延長戦に持ち込む。延長戦でも決着が付かず、PK戦で、ドイツのキーパーJens Lehmannイェンス・レーマンが2回シュートを阻止してアルゼンチンを降すという、スリル満点の「ドラマ」であった。(このようなスリルに富んだサッカーの試合のことを、ドイツ語ではFußball-Krimiフースバル・クrリミー「サッカー・犯罪映画」と呼んでいる。)

 この6月の大会の進行と展開を通じて、開催国でもあり、若いナショナルチームへのドイツ国内での応援が次第に高まっていく。ドイツの勝利毎に、ドイツ国内の気分、機運が高揚し、それまではナチス国家の戦争犯罪の重さにドイツ国旗を公けに振り回すことに抵抗を感じていたドイツ国民も、健全な気持ちでドイツのナショナルチームを応援するためにスタジアムで国旗を振り、頬にドイツ国旗の三色(黒・赤・金)を塗り付けていたのである。ベルリンのブランデンブルク門へと通じる大通りにはファン・ゾーンが設けられ、町のあちこちにはパブリック・ヴューイングとして試合の光景が映し出され、サッカーファンの国際的交流が自然発生的に生まれる。

 ドイツは、7月4日の準決勝で、この年の優勝国となるイタリアに延長戦で、119分まで0対0で抑えていたところで、119分と120分にイタリア側の得点が入り、結局0対2で負けるのではあるが、人は、この肯定的な6月中の雰囲気を、ドイツ19世紀の文学者Heinrich Heineハインリヒ・ハイネの韻文叙事詩『ドイツ、ある冬のメルヘン』になぞらえて、Sommermärchenゾマー・メアヒェンと呼んだのであった。この言葉にはドイツでのこのような文脈での意味付けがあり、ドイツは、22年の夏、今度は女子サッカーのEMロンドン大会で二度目のSommermärchenを味わうことになる。  

([4]に続く)

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