信号連立政権 [その3]  Ampelkoalition (アンペル・コアリツィオン) [その3]

 なぜAmpelkoalition「信号連立政権」がそう呼ばれるか、またその補足「その2」については、筆者の2021年3月19日と11月30日の同名の投稿を読まれたい。今日は、この12月8日に、信号連立政権が連邦レベルで戦後ドイツ史上初めて現実に成立したことを受けて、このテーマの「その3」を書こうと思う。

 まずは、連邦議会選挙から信号連立政権成立までの進行過程を復習しておくと、連邦議会選挙が行なわれたのが、9月26日の日曜日であった。投票は18時までで、この日の22時ぐらいまでには、労働者政党のSPD(エス・ぺー・デー:ドイツ社会民主党)が、これまでの政権与党CDU(ツェー・デー・ウー:キリスト教民主同盟)を抑えて16年ぶりに議会第一党となったのである。

 この選挙結果を受けて、早速、連立政権を成立させるための話し合いが始まった。紆余曲折はあったものの、選挙から約3週間後の10月中旬には、SPD、都市部中間・インテリ層が主に支持するエコロジー政党「緑の党」、都市部中間・富裕者層が主な支持階層となるFDP(エフ・デー・ぺー:自由民主党)の三党による、連立予備交渉覚書きがまとめ上げられ、本格的に連立政権協約書の作成に入る。

 約20のテーマ毎の作業部会が開かれ、さらに党上層部同士のすり合わせを経て、三党間の共通政策の調整が行なわれる。そうして、選挙から約二ヶ月後の11月24日に、三党間の妥協の成果となる、約170ページに及ぶ連立政権協約書が公けにされる。あとは、これが各党下部に降ろされ、各党全体の合意が得られなければならない。

 それぞれの党内レベルでの議論を経て、まずはSPDが、12月4日の土曜日に代議員を集めての臨時党大会で、協約書が、99%という、議論好きで党内左右両派の対立が激しいSPDとしては珍しく、ほぼ「全会一致」の圧倒的多数で採択された。翌日の日曜日には、FDPが、同様に代議員による臨時党大会で、本協約書を、92%の多数で採択する。FDP党首のChristian Lindner(クリティアン・リントナー)は、2017年の前回の連邦議会選挙後の「ジャマイカ連立政権」交渉においてなした自己の有名な文句「間違った政治を行なうよりは、政権に入らない方がいい!」に掛けて、協約書採択の結果を次のようにコメントした。「我々は、四年前には[連立政権に入るか入らないかについて] Noと言う勇気を持っていた。四年後の今日、我々は、Yesと言える勇気がある。」と。

 一方、緑の党では、その翌日の12月6日の、サンタ・クロースの日の月曜日に、党員の投票による採択が行なわれた。SPDとFDPの間にサンドイッチ的に挟まれ、SPDとしては、どうしてもFDPを連立に引き入れたいところから、緑の党が連立協約書では一番妥協を強いられた形である。しかも、「緑の党」党首Robert Habeck(ロベアト・ハーベック)など党執行部は、「現実路線派」といわれる党内右派に属しており、党内左派に、いかに政権人事的にも自分達の「妥協案」を「飲ませるか」が、この党大会での協約書の採択で問われていたのである。案の定、党内左派の一部が投票に参加しない形で投票が行なわれ、12万5千人の党員中、投票率が57%と低く、そのうちの86%が、協約書の採択に賛成した。緑の党内の複雑な「心境」が投票行動に表れていた。しかし、賛成は賛成である。

 翌日の12月7日に、三党は、各党大会の決定を受けて、177ページに及ぶ分厚い政権連立協約書を締結した。協約書に掲げられたスローガンは、「mehr Fortschritt wagen:メーア フォrルトシュrリット ヴァーゲン もっと進歩を思い切って試してみよう」である。このスローガンは、戦後西ドイツの政治史上初めてなったSPD連邦首相Willi Brandヴィリー・ブラントが掲げたスローガン「mehr Demokratie wagenもっと民主主義を思い切って試してみよう」に掛けたものであった。ブラントの新しい、対東ドイツ、対ソ連への東方政策なくしては、その後の東西ドイツ統一もありえなかったとも言える。

 こうして、12月8日の水曜日、新しい首班の選挙のために連邦議会が招集された。736人いる議員の過半数となる369票をSPDの連邦首相候補者Olaf Scholzオーラフ・ショルツは取らなければならない。信号連立政権党の合計の議員数は、416票。投票結果が公表され、ショルツ氏は、395票を集めて、戦後ドイツ史上4人目のSPDが出した連邦首相となった。この日の病欠が6人であったので、単純計算すれば、政権党からは15票が逃げたことになる。果たして、このことは何を意味するか。党大会での各党の、協約書の採択における結果を鑑みるに、逃げた票は、大方は緑の党からの票ではなかったかと想像される。

 この結果が公表され、SPDの女性議長に「選挙の結果を受けるか」と聞かれたショルツ氏は、もちろん、「受ける」と、ハンザ都市ハンブルク人らしいクールさで、あっさりと答えた。10時17分のことであった。これを以って、CDUの連邦首相アンゲラ・メルケル女史は、16年間の首相の座から降板することになったのである。4期に亘る期間中、一度だけが中道右派の、FDPとの連立政権であり、3回もがSPDとの「大連立政権」であった。その意味で、客船に喩えれば、甲板デッキで日に当たりながら、舵取りをしていたCDUに対して、ジュニア・パートナーとして政権に入っていたSPDは、いわば、裏方として、客船の機関室で、汗水を流しながら、しこしこ働いていなければならなかった、この「大連立」の12年だったと言えるのである。ある新聞は、SPDに焦点を当て、16年間のメルケル政権とSPDの関係を振り返って、このようにコメントしていた。

 ショルツ氏が首班に選挙され、その選挙結果を彼が受けると、政権党の議員は、スタンディングオベーションでショルツ氏に拍手を送り、それが少し済むと、会議場の二階に座っていたメルケル、今は前首相に、今度はCDUの議員も立って、政権党の議員ともども、長い拍手を送った。この時、唯一座席に座ったまま、メルケル前首相に拍手も送らなった政党があった。それが、新自由主義的で、いわば、「ジャーマン・ファースト」を唱える保守・右翼政党「AfD ドイツのための選択肢」であった。この政党の議員は、コロナ否定論者もおり、また、コロナ・ワクチン接種拒絶者もいるので、そのせいで、この日議場に入れなったAfD議員は、議場二階にガラス張りで仕切られた、わざわざ彼らのために用意された座席に座っていたのであった。

 首班指名の選挙が終わると、選ばれた者は、すぐに、連邦大統領から首相に任命されるために大統領の公邸に向かう。任命後は、即、連邦議会に戻り、連邦議会議長の前で宣誓を行うと、今度は、新首相は、自分の内閣の閣僚となるべき政治家と共に、また、連邦大統領の下に行き、彼らが任命を受けると、同様にまた議会に戻って、新閣僚が宣誓を行なうという手順で、新内閣が同日に成立した。それでは、その新内閣の顔ぶれについては、次の投稿で詳しく述べよう。

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