(34)「ぼけ」で大切なもの ━━ レンズの味を決める
写真やレンズにおける「ぼけ」の話を2回にわけてする、つもりだけど、じつは私の力量不足のためもあって、その説明が難しくて困っている。さて、どのように話を進めていけばいいのか・・・。
というわけで、先の見通しが曖昧なままスタートする。
「ぼけ」については、その評価、捉え方、考え方、感じ方、好き嫌い、良い悪い、など受けとり方に多種多様で個人差もある。
そこで、ここで話を進めるにあたり、まずは勝手ながら私が「ぼけ」について考えていること、感じていることの話から始めて、次回(「ぼけ」の話・その2)ではもう少し具体的で客観的な「ぼけ」の話につなげていきたい。
今回話をする内容については「そんなことなら知っているぞ、その意見、その見方はオカシイぞ」と思う人もいるだろうけど、ま、そこは大目に見てしばらくお付き合い頂きたい。
レンズによる「ぼけ」とは
画面の手前から奥まで、シャープにピントが合ったように見える写真は別にして、多くの写真は、よく見つめれば必ずピントが合って「鮮鋭な部分」と、ピントの合っていない「ぼけた部分」で画面が構成されているから写真がおもしろくなる。写真の画面を構成するうえでは「ぼけた部分」は、ピント部分と同じようにとても重要な表現要素でもあるのだ。
そもそもであるが、「ぼけ」とは、ピントが合ってシャープに写っている部分の、その前後のピントの合っていない部分をいう。ピントが正しく合っていないために、モノのかたちがぼやけて写っている状態、と言えるだろう。
ピントを正しく合わせても、収差などの影響で「ぼけたように」写ることもある。ここではそうした収差による「ぼけ」の話はせず、ピントの合った部分の前後に広がる「ぼけ」についてだけ話をつづけたい。
「ぼけ」とシャープなピント
広角レンズを使ったり絞り込んで写せば、被写界深度が深くなりピントの合った部分が前後に広がり「ぼけ」は目立たなくなる。ただし「広角レンズを使って絞り込めば画面全体がシャープに写る」と思われがちだが、それは厳密には正しいとは言い難い。ピントはレンズの画角や絞り値に関係なく常に「一点(線または面)にしか」合わないものなのだ。
絞り込んで被写界深度が深くなっても、それはピントが〝合っているように〟見えるだけだ。
小さな写真ではシャープにピントが合ってるように見えていても、その写真を拡大して至近で見れば、シャープに見えていた部分はぼやけて「ぼけ」が目立ってくる。つまり写真画像では、もともと「ぼけ」のチカラが圧倒的に勝っていて、「ピント」は大変に危ういものであり曖昧なものだということは知っておいてほしい。
写真に写る「ぼけ」と肉眼で見る「ぼけ」
「ぼけ」は写真(映像)の持つ最大の特長と言ってもいいのではなかろうか。
絵画史や絵画技術には詳しくないのだけれど、写真と同じ平面画像である絵画では「ぼけ描写」は写真ほどポピュラーではないように思う。洋画でも日本画でも「ぼけ」を描写をせず、パーンフォーカスにして背景を詳細に描くか、逆に単純化してメインテーマを強調しているようだ。
ただ(これまた曖昧な知識だけど)、ルネサンス期の画家レオナルド・ダ・ヴィンチが背景の輪郭をぼかして遠近感を表現する「スフマート(sfumato)」という技法(モナ・リザの背景の山並みなど)を初めて生み出したそうだが、写真映像などの「ぼけ」とは少し異なるようだ。日本画となると「ぼけ」そのものがほとんど見あたらない。版画となると「富嶽三十六景」、「東海道五十三次」などは徹底的なパーンフォーカス。
話が少し横道に逸れてしまうけれど、そもそも私たちが日常、肉眼でものを見ているときは「ぼけ」は見えない(はずだ)。私の眼にかぎって言えば「ぼけ」は肉眼では見えないし確認もできない。
いや、見えるぞ、いま見えている、とおっしゃる人もいるかもしれないが、それは観念的な視覚、知識の「ぼけ」であって実際に「ぼけ」は見えるはずがない(と思う)。
肉眼は「見つめる」だけですぐに見た部分に自動的にピントが合ってしまうではないか。だからピント部とぼけ部を「同時に」見たり見比べたりすることは決してできない。
ピント部とぼけ部を同時に見ることができるのはレンズを通して撮影した写真や動画などの画像だけの〝特権〟ではないだろうか。だからこそ写真やレンズにとって、ぼけ描写は写真観賞でも撮影でもとても大切だなものであると思うわけだ。
レンズの味とぼけの味
レンズの描写性能を語るときに、ややもすればシャープにピントの合った部分(結像性能)にばかりに注目して、良し悪しを評価し判断しがちだ。しかし「ぼけ」部分にこそレンズ描写の個性や特性、味わい(官能性能)などがふんだんに存在しているのではないだろうかと思う。
「ぼけ」部分の描写のことを「ぼけ味」ともいう。使用するレンズの種類によって「ぼけ味」は多種多様に変化する。すなわち撮影条件によって千変万化する。
ぼけ味は同じ焦点距離のレンズでも撮影時のF値、撮影距離、ピントを合わせる位置、絞り羽根の形状、背景との距離、光線状態などによって大きく変化する。前ぼけと後ぼけもぼけの様子が異なる。こうした多種多様な「ぼけ」こそがレンズの個性であり、レンズの良し悪しの重要な基準でもあり、レンズの好き嫌いの大切な要素でもある。
ぼけ味こそ、レンズの描写の「味」を決めている、と言ってもいい。
ぼけの「諧調」とは?
写真の「ぼけ」を見たり言ったりするとき、ピント部の前後で大きくぼけた部分やその状態に注目しがちだ。しかし、シャープにピントの合った部分から、だんだんとなだらかにぼけていくその様子こそが、「ぼけ」描写のもうひとつの大切な要素なのだ。
そのぼけていく様子を仮にここでは「ぼけの諧調(ぼけのグラデーション)」と言うことにしたい。「ぼけ」のカタチや状態と同じく、「ぼけ」の諧調にもまたレンズ特有の「味やクセ」がある。
良いレンズと評価されているレンズは、「ぼけのカタチ」と「ぼけの諧調」のふたつの要素が大切だと言われている(一般論だけど)。
ピントの合った部分から少しづつピント位置からズレていくと(アウトフォーカスになると)、急激にがくんっと崩れるように大きくぼけてしまい、ほんらいのモノの形状がなくなってしまう、そんな描写をするレンズがある。「ぼけの諧調」が乏しいレンズ描写だ。
こうしたレンズは、自然な立体感や雰囲気のある奥行き感が感じられなくなってしまう。
だいぶ以前の話になるが、写真家の木村伊兵衛氏が「和室で白い襖を背景に女性のポートレートを撮ると、後ろの襖が崩れた豆腐なのか襖なのかわからないような写りをする、そんなレンズは良くない。どれだけぼけてても襖は襖だとわかるように写るのがいいレンズなのだ」と語っていたのをなにかで読んだ記憶がある。
つまり、良いぼけ味というとき、前ぼけや後ぼけが柔らかくクリアーに大きくぼける「ぼけのカタチ」だけでなく、だんだんと緩やかにぼけて、ものの様子がなんとなくわかるような「ぼけの諧調」の両方が備わっているかどうか、ぼけ味を見極めたり語ったりするときに大切にしたいことだ。
良い「ぼけ」、悪い「ぼけ」ってあるのだろうか
ところが ━━ ここが、ぼけ論の難しいところなのだが ━━ 現在は「ぼけのカタチ」と「ぼけの諧調」に優れたレンズが、すなわち良いレンズだとは言い切れなくなっている。
「ぼけ」の描写は「良い、悪い」ではなく「好き、嫌い」で評価し判断するもの、という考え方、受け止め方が広まりつつある。多様な価値観、自由な表現と評価。
「良いぼけ、悪いぼけ」ではなく、いまは「好きなぼけ、嫌いなぼけ」の時代なのだ。
かって悪い「ぼけ」描写だと評価され認識されてきたものが、最近の評価では「味のあるぼけ」や「個性的なぼけ」であるということで、積極的にそうしたクセのある「ぼけ味」のレンズが好まれ高い評価も受けている。
まさにそういう時代なのだろうし、科学写真は別にして、そもそも写真は表現なのだし表現に良し悪しなんてない。私自身もいまはそういう考えに傾きつつある。
ぼけ味はレンズの個性、レンズそれぞれの持ち味なのだ。さらに、ぼけの描写はピントの合った部分の結像性能のように定量的、数値的に客観評価できないものだ。官能的な評価が馴染みやすいと言えるのではないか。
というわけで、次回は「ぼけ」の描写や味について様々な例を見ながら解説するつもりだ。
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