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天国の日記 (1)

新しいエルサレムの第451階層に住んで約3,000年が経過しました。ここでは時間の概念が異なり、永遠の朝が続きます。眠る必要がなく、イベントは即時に行われます。復活した人々や動物たちが突然訪れ、交流が絶えません。完全に罪から解放された生活は、喜びに満ちています。この巨大な立方体の都市では、各階層が独自の環境を持ち、住人は自由に移動できます。永遠の生命を楽しむ新しい世界の日常が描かれています。

自分が「新しいエルサレム」の第 451階層に住み始めてから、旧世界での暦法に従えばおよそ 3,000年ぐらい経過しているだろうか *¹。

ここでの生活は、物事に追われるとか期日を待つとかいうことが、まったくない。時間の流れが旧世界とは異質なのだ。

ここでは、永遠の時間が切れ目なく流れ続けている。つまり、あとが無い、のではなく、あとが無限に控えているのだ。

このため、あらゆるイベントに関して、期日を設定する必要がなく、ゆえに、どんなことも即自的・即発的に行われてしまう。

だから、情報共有ネット「ニュー・エルサレム・ポータル」で絶えず更新され続けるイベント情報を、見逃さないよう注意していないといけない。

たとえば、先日開催されたアクィナスとカルヴァンとバルトの神学鼎談ライブなんか、選定された会場が収容上限 100人だったものだから、告知された瞬間、整理券がなくなってしまった。

旧世界だったら、きっと「神学的巨人の鼎談の夕べ」とでもタイトルを打ったんだろうけど、ここには日没が無い。永遠の朝があるだけだ。

義の太陽であるイエスが、沈むことも陰ることもない輝きを、いつでも放っている *²。

つまり、ここには夜が無い。ゆえに、眠る、ということが、ない。最初の頃は、眠らない、眠くならない、ということが、どうも不慣れだった。

到着初日、用意された住居に案内してくれた天使に「寝室はどこですか?」と尋ねたら、鈴のような声で笑われた。

天使は言った。「ここには眠りは無いんですよ。眠るって、死ぬための予行演習だったんですから。でも、あなたは一回死んで、そして、復活したんです。だから、もう予行演習する必要はないでしょ?」 

そうだった。自分は一度死んだんだった。。。

臨終の日。病室で遠のいていく意識。それは、ほんとうに眠りに似ていた。だから、死ぬことはまったく自然で、何も違和感をおぼえなかった。

それはそうか。生きているあいだ、毎日眠りに着くことによって、その準備をしていたわけだから。

最後の眠りに着いて、意識がすーっと消え、次の瞬間、目が覚めたときには、もう自分に「復活のからだ」が与えられていた *³。

ベッドから起きるようにして緑の草原の上に立つと、そこは、すでにイエスが再臨した世界になっていた。

生まれてはじめて見るイエスの顔。。。のはずなんだけど。。。不思議なことにそれは、ずーっと昔から見慣れていて、よく知っている顔だった。。。そうだったんですね、自分は意識していなかったけど、あなたはいつも一緒にいてくれたんですね *⁴。。。そのことに気づいて、胸がジーンと熱くなり、涙がこぼれた。

すると、すかさず、天使が来て、涙をハンカチでぬぐってくれた。驚くべきことだが、ここ、新しいエルサレムでは、ひとり涙を流す、ということがまったくできない。

悲しくて涙を流すことは、ここでは基本的に無いのだが、よろこびや感動で涙が出ることは、しょっちゅう、ある。

で、少しでも涙が流れると、どこからからともなく天使が現れ、ハンカチでぬぐってくれて、ハグしてくれる。やさしくハグされると、もっと涙が出てしまうので、きりがない。。。

自分が住んでいる階層は、たて・よこ・高さがそれぞれ 2,200キロメートルある巨大な立方体の都市「新しいエルサレム」の上から数えて第 451番目に位置している。

この巨大な構造物は、旧世界では未知の理論と法則によって構築されている。その技術について詳しく叙述するとしたら、おそらく、小さな図書館を埋めるぐらい本を書いても足りないだろう。

第 451階層は、一辺が2,200キロメートルの正方形で、天井まで 1キロメートルある広大な空間だ。サイズ的には日本列島がすっぽり収まってしまう。その中に、山もあり、川もあり、森もあり、草原もあり、海もある。

このような階層がほかに 1,000以上ある。各階層の仕様は、ほとんど海のところに数万の島が浮かぶもの。全面が都市になっているもの。森と湖だけのもの。半分が砂漠で半分が草原のもの。1,000メートル級の高層ビルが林立するものなど、いろいろだ。

第 451階層だけで1億人が住んでいるのだが、自分には 200メートル四方の敷地が割り当てられている。東京ドームにして1個分ぐらいの広さだろうか。その敷地の半分は森、半分は草原になっていて、森を背にチューダー様式の邸宅が立っている。それが、自分の住居だ *⁵。

さっき、涙が出るたびに、どこからともなく天使が現れる、と書いたが、突然訪れるのは天使だけではない。

予告なく、ありとあらゆる人たちが、やって来る。ここの住人はみんな「復活のからだ」を持っているので、念じるだけで、一瞬で自分の行きたい場所にテレポーテーションすることができるのだ。

ここでは、あらかじめスケジュールを立てるという旧世界の習慣が廃棄されているので、だれもが、自分の好きな時に、好きな場所へ、好きな方法で移動する。

テレポーテーションだけでなく、徒歩を好む「ウォーカー」と呼ばれる者たちもいる。一瞬で移動できるところを、わざわざ時間をかけて楽しみながら歩くのだ。

そんなわけで、ひっきりなしにいろんな人物が訪ねて来ることになる。旧世界で死に別れた、あの人や、この人が、若々しい栄光の復活の姿で、どこからともなく突然、自分の居間に入って来る。

最初は、死ぬほどびっくりした。。。復活しているから、死なないけど。。。ノックぐらい、してくれたらいいのに。これじゃあ、ドアが付いている意味、ないじゃん!*⁶

しかし、この「新しいエルサレム」では、もう、後ろ暗い罪を犯すことはないので、結局のところ、いつ、だれが、どんなタイミングで訪ねて来ても、ドギマギすることは何も無い、ということに気づかされて、今ではすっかり慣れっこになってしまった。

自分が完全に罪から解放されている、という事実が、永遠の朝の光がさすこの場所の輝きを、楽しさを、よろこびを、何倍にも増している。

しかし、もっとびっくりしたのは、人間以外の来訪者がある、ということだった。銀色の髪に、緑色の目をした、そばかすだらけの少女が、どこからともなく居間に入って来て、ニコニコ笑っていたりする。

どちらさまですか? と尋ねると、「あなたが子どもの時、あなたのうちにいたヤモリです。わたしが死んだとき、庭にわたしを埋めて、お墓を作って、お花を供えてくれたでしょう?」と言う。

そうなのだ。ここでは、復活した旧知の人間が訪ねて来るだけではない。ローマ書 8章に記載があるとおり、神の子たちの栄光にあずかった、ありとあらゆる被造物が、訪ねて来るのだ *⁷。

彼女と1時間しゃべっているあいだに、もうふたり来訪者があって、自分が子どものとき、やはり庭にお墓を作ってやったスズメと金魚だと言う。スズメは精悍な青年に。金魚はふくよかな女性になっていた。

結局4人で草原にテーブルを出して食事をすることになったのだが、そうこうしていると、もう次の来訪者があって、だから、もう1名分、食事を用意しなければならなかった。

ほんとうに、ここにはヒマということがないのだ。(続く)

註)
*1. Cf. 黙示録 21:1ff
*2. Cf. 黙示録 21:5
*3. Cf. コリント一 15:51-52
*4. Cf. マタイ 28:20
*5. Cf. ヨハネ 14:2
*6. Cf. ヨハネ 20:19
*7. Cf. ローマ 8:21


※上記の文章はAIではなく人間が執筆したフィクションです。

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