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紙風船の向こう側

会社帰りに、いつもの道を歩く。  

駒込駅近くの喫茶、紙風船。
茶色い外壁は煤け、ガラス戸はくもっていて中がよく見えない。
床が通りより一段低く、覗き込むには少し身をかがめないといけない。

営業しているのかどうか、よくわからない。
灯りはついているのに、人が出入りするのを見た記憶がない。
扉のガラスには、かすれた金文字の店名が貼られていた。読める部分は「紙」だけ。  

「紙風船? うん、入ったことはないな」  
「やってるのか? あそこ」  

そんな店だった。  


その日、なんとなく扉を押した。  

古びた店内はカウンターが五席、赤い合皮のソファが四つ。

客は三人。
カウンターに男が二人、ソファに女が一人。
それぞれ席を離して座っている。  

空いているソファに腰を下ろし、テーブルに手をつく。

やけに冷たい。
インベーダーゲームの筐体だった。
画面は黒く沈み、電源は入っていない。
ボタンはすり減り、コイン投入口のプレートは曲がっている。
指先でなぞって、ひんやりとした金属を感じた。

外観の通り、古くからやっているんだろう。  

ふと、コーヒーの匂いがした。
店に染みついた古い豆の香りだった。  

ソファに体を預けると、合皮のクッションがわずかに沈む。
指で押すと、中の詰め物が乾いたように軋んだ。

テーブルの隅に、古いガラスの灰皿があった。
店のロゴがうっすら残っている。
何年も使われていないのか、灰もなければ、拭かれたような形跡もない。
ただそこに置かれているだけだ。

カウンターの奥にいた老店主が、メニューを手元に置き、そのまま何も言わずに奥に消えた。  

メニューを開いたが、いくつかの文字がかすれていて、読めるような、読めないような。
どうでもよくなり顔を上げる。
カウンターに店主の姿がない。  

少し待ったが、誰も気にしていないようだったので、なんとなく深く座り直した。  


有線が流れている。

── 教えてくれたのはあなたでした

聞いたことはあるが、なんだったか思い出せない。
スピーカーの位置が悪いのか、壁に吸われて遠くで鳴っているようだった。

カウンターの方からぼそぼそと声が漏れてくる。  

「…なんか見た」  
「いや…そうはならんやろ」
「お前の中ではな…」
「それはそう」  

話の流れがあるような、ないような。
誰かが何かを言い、適当に相槌を打つ。
そうやって、噛み合っているのかもわからない、ただの音だけが続いている。  

ふと、向かいのソファの女に目を向けた。
どこかで見たことがあるようだが、思い出せない。
顔をはっきり見たわけでもないのに、知っているような気もする。  

店主が戻ってきたので、「コーヒー」とだけ言った。  


カップが置かれる音がして、ふと黒い画面に目を落とす。  

ぼんやりとした反射の中に、向かいのソファが映っている。
手前には自分が座っているはずなのに、その姿ははっきりしない。
角度を変えてみても視点が定まらなくて、なんだか掴みどころがなかった。  

カウンターの奥から店主と誰かの声が聞こえた。
今度はやけにしっかりと。

「どうです?」  
「まあ、変わらず」  
「変わらずですか」  

短い会話だった。  

ふと掛け時計に目をやる。
針は動いているように見えたが、何時だかわからないのは自分がぼんやりしているだけなのか。

コーヒーを飲み、会計を済ませて店を出る。


外に出ると雨が降っていた。  

しばらく軒下で雨を眺めたあと、何気なく振り返ると、ガラス越しに店の中が見えた。  

さっきまで自分がいた窓際のテーブル。
視線を向けた先に誰かが座っていたような気がした。
もう一度よく見ようとしたが、薄暗い形をなぞろうとするうちにゆっくりと溶けていった。  

・・・

次の日、会社の同僚に何気なく言った。

「昨日、紙風船に入ったよ」  

同僚は顔をしかめる。  

「あそこ、入れたの?」  
「どういう意味だ?」  
「いや……やってるのかもよくわからんし……」  

昨日のことを思い出そうとする。
確かに、入った。
けれど、いたはずの人の顔がうまく思い出せない。店主の表情も、コーヒーの味も、何もかもが曖昧だった。  

ただ、あの黒い画面に映るはずの自分をうまく見つけられなかったことだけ、はっきりと覚えている。

デスクに戻りPCの電源を入れる。
立ち上がるまでの少しの時間、黒い画面に目をやった。

向こうに映る輪郭をじっと見てみたが、それが誰だったか…

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