太眉角刈り比例理論
昨今、太眉の人間の割合も、角刈りの人間の割合も減ってきているように感じる。
お笑い芸人などがキャラ付けで眉毛を太く書いたり、角刈りにしていたり、そんな存在になってしまっている。
別に、そこに対して抗議したいとかそういう訳ではない。ただ、勿体ないなと、そう思うだけだ。
前提として、太眉角刈り比例理論とは、完成度と美しさの話であり、眉毛が太くなればなるほど、髪型は角刈りに寄っていくという、二つの比例関係の理論である。
想像してみて欲しい。
角刈りで眉毛が細いと何か味気ない、バランスが悪い。眉毛が太いのに角刈りじゃないと何か足りない。
そのように感じたことは無いだろうか。
何故このような事が起こるのかというと、太眉角刈りの比例関係を理解せず片方だけを取ってしまっているからなのだ。
例を挙げよう、ゴルゴ13のデューク東郷、こち亀の両津勘吉、俺物語の剛田猛男、皆、太眉角刈りのレジェンド達だ。
先ほど、キャラ付けのために芸人などが太眉や角刈りにするという話をしたが、キャラ付けとして成り立つのはやはり現代では少ないアイデンティティを付与することからくる違和感によるものだろう。
しかし、例で挙げたレジェンド達の太眉や角刈りに違和感を感じた事があるだろうか。ないと思う。
それは太眉と角刈りという二つが組み合わさる事によって成り立つ完璧なビジュアルの完成度と、美しさがそこにあるからである。
それは分かったが、何が比例してるんだと、そう思っている人もいると思う。落ち着いて欲しい。私が提示している理論に基づくと、デューク東郷の眉毛が細くなれば髪は伸びるし、両津勘吉の髪が伸びれば眉毛は細くなるのだ。これは絶対である。
太眉と角刈りが組み合わさることによって、もう一つ生まれる付加価値がある。それは、二つが揃ってしまった人間は、とんでもなく「漢」だという事だ。
それ以外にピッタリな言葉があるだろうか?いいや、無い。太眉角刈りにすれば、とにかくとんでもなく漢になれるのだ。
そこから更に漢を高めようとすると、毛の濃さや、胸毛、タンクトップ、丸太を抱えることは必須だろう。
そして、漢は太眉と角刈りが揃う事によって生まれる付加価値なので、毛の濃さや、胸毛、タンクトップや丸太を抱えることは、太眉と角刈りが揃った時の完成度を更に高める為の要素とも言えるだろう。
さて、ここまで出てきたキーワード、「眉」「角」「濃」「漢」、要約するとこんなところだろう。
この四つの漢字を見て何か感じないだろうか。
そう、どれも横線が異様に多い。これは四つの漢字が「毛」を示唆しているに違いない。
物の形を形どって出来た漢字が象形文字なのだが、この四つだけはおそらく象毛文字なのだと思う。
つまり、それほど昔から太眉と角刈りの美学は始まっており、現代まで伝えらてきたのだ。
そう思うと、涙が出る。
感動の涙ではなく、悔しさの涙だ。
この太眉と角刈りの美学を理解している現代人の割合があまりにも少な過ぎる事に対する悔しさの、涙だ。
これで最後になるが、私なりの太眉と角刈りのベストな人物像を提示しようと思う。
太眉で角刈り、毛は濃く、胸毛から腕毛、すね毛や指毛など全てにおいてフサフサ。タンクトップにホットパンツを纏い、もちろん裸足。雪山の中、丸太を担いで、体から蒸気機関車のように熱気を吐き出し歩く。
とても美しく、凄まじい完成度だ。
まさに太眉の中の太眉、角刈りの中の角刈り、漢の中の漢で、ある。