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生成AIブームの陰で再び注目されるmRNA技術の潜在力
今回は、ここ数年で急激に存在感を増したmRNA技術について改めて考察したい。
新型コロナウイルス感染症(COVID-19)のパンデミックを契機に、この技術は注目度と投資額を飛躍的に高めた。特にModerna社とBioNTech社が、新型コロナワクチンを史上最速のスピードで開発し、高い有効率を記録したことは世界的な注目を集める大きな要因となった。
しかし、mRNAの物語はまだ序章に過ぎない。感染症分野だけでなく、がん治療や自己免疫疾患、希少疾患といった多岐にわたる領域に応用できるこのプラットフォームが、今後世界の医療地図を大きく書き換える可能性を十分に秘めている。本稿では、両社の現状と展望、そしてmRNAがもたらす未来を章立てで詳細に紹介していく。
コロナワクチンの需要が落ち着き、生成AIのブームが続く昨今では、ヘルスケア分野への投資マネーが一時的に後退したように見える。しかし、mRNA技術が真価を発揮すれば、再びこの領域に大きな光が当たる時代が来ると考えている。その背景や理由も含め、投資目線から大局を俯瞰してみたい。
mRNA技術が生んだ歴史的転換点
mRNA(メッセンジャーRNA)とは、細胞内でタンパク質合成を指示する“設計図”のような存在だ。体外からmRNAを投与し、細胞内で一時的に目的のタンパク質を作らせることで、従来の治療薬やワクチンとは異なる戦略が可能になる。
このコンセプト自体は1990年代から存在していたが、RNA分子の不安定性や強い免疫反応を引き起こしやすい点が障壁となり、長らく実用化には至らなかった。それを打破したのが、RNAを化学修飾して安定化させる技術と、リピッドナノ粒子(LNP)を用いた送達法の確立だ。これらが成熟したことでmRNAは臨床応用の可能性を大きく広げた。
2020年に世界を襲った新型コロナの危機下、Moderna社とBioNTech社はこのmRNA技術を最大限に活用し、わずか1年足らずで高効率なワクチンを完成させた。これは感染症対策の歴史において画期的なスピードであり、mRNAを一気に“主要な選択肢”へと押し上げる契機となった。
さらに、mRNAワクチンは汎用性に富んでいる。コードする抗原配列を変えることで、変異株や異なるウイルスにも高速対応できる。これがインフルエンザやRSV(RSウイルス)、あるいは将来出現する新興感染症への活用に期待が寄せられる理由だ。規制当局もmRNAの特性を評価し、審査プロセスを改善する動きを見せている。
mRNA技術は、従来の遺伝子組換えタンパクワクチンや不活化ワクチンと比較しても開発スピードの速さが顕著だ。パンデミック以前なら数年〜数十年かけて行われた工程を、1年以内でまとめあげた実績が、世界中の研究者と投資家を大きく刺激した。これこそがmRNA技術における革新的なポイントだといえる。
新型コロナワクチンの衝撃
Moderna社とBioNTech社(Pfizer社と提携)のワクチンは、それぞれ臨床試験で94〜95%という非常に高い予防効果を示した。これは既存の一般的なインフルエンザワクチンが毎年大きく変動する有効率(概ね40〜60%とされる)と比べても明らかに高く、世界の人々がワクチンのイメージを一変させるほどの衝撃を与えた。
パンデミック下で緊急使用が承認された結果、両社の製品は地球規模で数十億回分以上接種され、記録的な売上を計上した。Moderna社は2021年に時価総額が1,800億ドルを超えたとも報じられ、BioNTech社はPfizer社との共同開発収益を通じて巨額の利益を得た。
しかし、2022年に入るとコロナワクチン需要は落ち着きを見せ、両社の株価も急騰状態から調整局面に移行した。それでもパンデミック前と比較すれば、依然として巨額のキャッシュを有しており、その資金がポストコロナに向けた研究開発を支える原動力になっている。
パンデミック期における緊急承認の経験は、mRNA技術の審査プロセスにも影響を与えた。変異株へのブースターが速やかに承認されたり、次世代ワクチンへの審査が迅速化されたりと、規制面での障壁が低くなっている。この動向は、両社が開発しているほかの疾患領域(インフルエンザやがんなど)への応用を加速させる追い風となりうる。
さらに、パンデミック後の世界では、mRNA技術を用いた迅速なアップデートが“次のパンデミック対策”にも重要視されている。国家や公的機関が備蓄用ワクチンとしてmRNAを優先調達する動きも広がり、公衆衛生と国防の両面でmRNAが中核を担う可能性が出てきた。
感染症ワクチンの新時代
COVID-19ワクチンで脚光を浴びたmRNAだが、その応用先は新型コロナだけにとどまらない。インフルエンザやHIV、RSV、マラリア、結核など、従来のワクチン開発が停滞していた領域こそが、現在の主なターゲットになっている。mRNAプラットフォームを使うことで、株の選定や抗原設計を柔軟に変更できる利点が大きい。
Moderna社は2024年にRSVワクチンを本格的に市場投入し、2025年にはインフルエンザと新型コロナを組み合わせた2価ワクチンを投入する計画を打ち出している。BioNTech社もPfizer社との共同で季節性インフルエンザワクチンを研究しつつ、マラリアや結核、ヘルペスウイルスなど多数の感染症ワクチンを推進中だ。
感染症ワクチン市場は全体としても拡大傾向にあり、とりわけRSVや新興感染症向けワクチンには世界中の公衆衛生当局から強い注目が集まっている。mRNA技術なら開発スピードが格段に速いため、季節性インフルエンザなど毎年変異株が出るウイルスにも素早く対処できる可能性が高い。
加えて、パンデミック後の世界では、従来の卵培養型インフルエンザワクチンに代わり、mRNA技術で改良した高精度ワクチンが普及するシナリオが現実的になってきた。RSVについても、高齢者向けや小児向けのmRNAワクチンが続々と試験段階に入り、承認を取得することで今後数年で大きな市場が形成される見込みだ。
各国政府が感染症対策の強化を進める限り、mRNA技術への需要は引き続き高いと考えられる。ワクチンだけでなく、抗原設計や投与経路のイノベーション、マルチワクチン(複数疾患を1本にまとめる)といった新しい取り組みも加速し、感染症ワクチンの新時代を牽引する原動力となるだろう。
がん領域への革命的アプローチ
感染症の成功に続き、mRNA技術が今まさに照準を定めているのががん領域である。患者ごとに異なる腫瘍遺伝子の変異(ネオアンチゲン)を解析し、個別に設計したmRNAワクチンを体内に投与してがん細胞を狙い撃つ“個別化がんワクチン”は、従来の治療法にはない革新性を持つ。
Moderna社はMerck社と、BioNTech社はGenentech社(ロシュ傘下)とタッグを組み、黒色腫や肺がんでの臨床試験を積極的に進めている。特に手術後の再発予防や進行がん患者の補助療法として、免疫チェックポイント阻害剤(例:ペンブロリズマブ)と併用する戦略が注目される。
これまでの臨床データでは、再発リスクを下げる可能性を示す結果もあり、早ければ数年以内に先行承認への道が開けるかもしれない。また、BioNTech社は“オフザシェルフ”型ワクチンも複数開発し、Moderna社はmRNAでコードするサイトカインやCAR-T細胞との併用など、多彩なアプローチを検討中だ。
がん領域で成功を収めた場合、そのインパクトは感染症ワクチンをはるかに上回る規模になりうる。肺がんや乳がん、大腸がんなどの主要ながん種で個別化医療が実現すれば、医療のパラダイムシフトが起こる可能性が高い。
当然ながら、がんは複雑な疾患であり、臨床試験のハードルは高い。安全性・有効性の確認に長い年月と大規模な研究費用が必要となる。しかし、巨額の資金を得た両社はこのリスクを引き受けるだけの体力と意欲を持ち合わせている。高いハードルを越えた先には、革新的ながん治療薬としての莫大な収益と社会的評価が待っているだろう。
双雄のパイプライン:Moderna社とBioNTech社
Moderna社は創業以来、“mRNA一本槍”で研究を進めてきた。新型コロナワクチン以外の商業化実績はまだ乏しいが、圧倒的なR&D投資とスピード感で、あらゆる領域にmRNAを適用しようとしている。2023年には45億ドルの研究予算を投入し、COVID-19以外の感染症ワクチンや個別化がんワクチン、自己免疫疾患領域などで同時並行的に数多くのプログラムを進めている。
Moderna社は2024年のRSVワクチン承認を皮切りに、2025年にはインフルエンザとの2価ワクチン発売、2026〜2027年頃にがんワクチンの承認申請を目標とする長期ロードマップを公表している。市場からの厳しい目線を浴びる中でも、短期的利益より長期的成長を優先する姿勢が同社の強みだ。
一方、BioNTech社はがん免疫療法をルーツとし、mRNA技術だけでなく、抗体医薬やADC、CAR-Tなど複数のプラットフォームを取り込む“多角化戦略”を採用している。Pfizer社という世界的製薬企業との協業により、大規模な生産と販売体制を確立しており、感染症からがん治療まで広範なパイプラインを持つ。
BioNTech社は個別化がんワクチンはもちろん、マラリアや結核、帯状疱疹といった分野でもmRNAワクチンを開発中だ。さらに買収や提携によって抗体製品やADCなどをパイプラインに加え、ポストコロナの収益源多角化を着実に進めている。潤沢なキャッシュを背景に、臨床試験を世界規模で展開し、複数プロジェクトを同時に走らせるのが強みだ。
両社とも、新型コロナワクチンから得た資金を原動力に次世代製品の研究開発を推し進める構図は共通する。互いにアプローチは異なるが、mRNAのリーダー企業として今後数年間で複数の製品を市場に出す準備を整えている段階にある。
競争環境と課題
mRNA分野は、Moderna社とBioNTech社が圧倒的な先行者として注目を集めているが、競争環境は激しさを増している。かつて先陣を切っていたCureVac社も改良型mRNAを導入し再チャレンジ中であり、Arcturus Therapeutics社は自己増幅型mRNA(saRNA)技術を武器に台頭している。さらにSanofiやGSKといった大手製薬企業が相次いで買収や提携を行い、mRNAへの参入を加速させている。
特許をめぐる係争も活発化し、Moderna社がPfizer/BioNTech社を特許侵害で訴え、CureVac社もBioNTech社を訴えるなど、主要プレーヤーが互いにライセンスやロイヤリティを巡って争っている。こうした知財問題が解決に時間を要する場合、開発や販売の戦略にも影響が出るだろう。
技術面の課題も残存する。mRNAは相変わらず低温保管が必要で、流通や保管にコストがかかる。また、一時的に高い免疫反応が生じ、副反応リスクをどう最適化するかも重要だ。特にがんワクチンでの臨床成功率は高くないため、長期にわたる大規模試験が必要となり、投資的リスクが大きい点は否めない。
COVID-19ワクチンの需要が急速に減少している現状では、両社とも“次の収益の柱”を早急に確立する必要がある。Moderna社はRSVやインフルエンザ、BioNTech社はがん免疫療法と複数感染症ワクチンなど、それぞれのパイプラインを早期に市場化することが急務だといえる。
投資の視点:ヘルスケアから再び注目される日は来るのか
パンデミック中は莫大な投資資金がヘルスケア分野に流れ込み、Moderna社やBioNTech社の株価は天井知らずに上昇した。しかし、2023年以降はコロナワクチンの需要急落や、生成AIブームによる投資マネーのシフトにより、ヘルスケア全体が相対的に不利だという見方もある。
多くの投資家がITセクターやAI関連銘柄に注目し、ヘルスケアやバイオセクターから資金が抜ける現象が起こっている。この動きと、コロナ後の需要激減が重なり、両社の株価はピークから大きく調整された。だが、mRNA技術の潜在能力が消えたわけではない。
もし今後、がん免疫療法や感染症ワクチンの分野で大きな臨床成功が現れれば、投資家の視線は再びヘルスケアへ戻るはずだ。特にがん領域で顕著な成果が報告された際のインパクトは計り知れない。大きなリスクを伴いつつも、成功したプログラムの市場価値は莫大だからだ。
投資家としては、主要な臨床試験のフェーズ3結果や承認タイミングを注視する必要がある。Moderna社とMerck社が共同開発する黒色腫ワクチンや、BioNTech社の多様ながんワクチン候補など、成功が見えた瞬間に株価が跳ね上がるシナリオは十分考えられる。一方で失敗や遅延が発生すれば下落も激しいため、高リスク・高リターンという点は変わらない。
mRNA技術は感染症だけでなく、自己免疫疾患や希少疾患領域にも拡張が期待される。これらの領域でブレイクスルーがあれば、医療現場にとっては大きな恩恵となり、市場も大幅に拡大する可能性がある。現時点では生成AIブームによってヘルスケアが見劣りしている印象があるが、研究開発が形になった瞬間に再評価される構図が十分ありうる。
まとめ
世界がポストパンデミックへと移行し、Moderna社とBioNTech社のmRNA技術に対する投資家の関心はやや落ち着きを取り戻した。しかし、両社はCOVID-19ワクチンで得た巨額のキャッシュを基盤に、感染症からがん、自己免疫疾患まで幅広いプログラムを同時進行で開発している。
インフルエンザやRSVといった次の感染症ワクチンを市場に送り出し、その後がん領域で大きな成果を出した時、投資家の視線は再びヘルスケアへ集まるだろう。AIブームで関心がそちらに移っている状況は一時的であり、医療の本質的な課題を解決する技術としてのmRNAは、中長期的に見れば依然として大きな可能性を持っている。
パンデミック期に積み上げたmRNAの実績と研究知見は、今後10年にわたりさまざまな新薬や新しいワクチンへと転化していく可能性が高い。特にがんワクチンで新たな扉が開かれれば、医療の枠組み自体が根本から変わる可能性もある。
一時的にはコロナ需要減少や株式市場のトレンド変化によってヘルスケア分野の投資パフォーマンスが優れない状況が続くかもしれない。だが、mRNA技術の持つポテンシャルは揺らがない。将来的にModerna社とBioNTech社が先頭に立つ形で、再び大きな注目が集まる可能性を十分に見込めるだろう。
私の視点から言えば、ヘルスケアへの投資は今しばらくは冷静に進捗を追う段階にあるが、その先には感染症とがんの2つの巨大な市場で再ブレイクが起こるシナリオがある。高いリスクと比肩するほど大きなリターンを狙うなら、mRNAはこれからも見逃せないテーマである。