行動連想 2023/01

 2023年はNoteに「行動連想」ということで毎月、触れた作品や考えていたことを連ねていく場を作る。
 細かいルールを定義するうちに熱意を失ってしまうことを防ぐため、今回はとにかく、今指が動くままに進めていくのがよいと考えている。きっと続けていくうちに、内容も固まってくるか、もしくは毎回姿を変える流動的な存在であることをシグネチャーとするものになっていくはずだ。

 まずは今月のプレイリストを。

 このプレイリストには新譜と旧譜の違いは全く存在しないし、今月知ったか、10年前から知っているかどうかも関係ない。この試みではそのような実際に即した音楽の聴き方を改めて定義づけていきたい。

 今月の序盤は新年一発ということで心機一転新しいものにチャレンジ、というわけでもなく、年末からの問題意識を継続したままジャズの古典を訪れていた。中でもコルトレーンとハービー・ハンコックは掘り甲斐があった。自らのプレイヤーとしての可能性を演奏能力に加担するというある種スポーツ的なアプローチを実践することを厭わず、アルバムごとに達成を見せていくコルトレーンのワークはスリリングだった。中でもプレイリストに入れた
「Live at Village Vanguard Again」における「My Favorite Things」におけるサンダースとの競演は圧巻であり、若き鬼才サンダースにヴェテランとしての品格と技術を教示するかような美しい時間であった。僕はこういうスポーティなソロの取り合いが昔から好みで、自分にとってジャズのファースト・インプレッションであった「Return to Forever」の感覚を、久々に思い出すような感覚があった。チック・コリアと彼が従えるメンバーの猛烈な演奏の主導権争いについて、素晴らしい筆致で書いた個人サイトを昔見たような記憶がある。
 一方のハンコックは丁寧なビバップ作品からアヴァンギャルドなジャズロック、「Future Shock」における達成まで、器用な飛躍をみせる様が興味深かった。時代の変化に適応して無理にでも姿を変えていくような音楽家が僕は好きだ。例えば70年代にパンク/ニューウェーブの風に当てられて方向転換を強いられたELPやCamelといったProgのバンド群がそうだ。そうした作品に却って表出する時代のディレイ感を愛したくなる。ただ、ハンコックの場合はそうした異物感は見られず、あまりにフルーエントに時代を渡り歩いていくので驚いてしまう。
 ちなみに、この頃のジャズ探求の道標としているのが村井康司さんの「現代ジャズのレッスン」である。探求は途中で止まっているが、思い出した時に再開したい。

 年末、初めてEle-Kingを買い、何年か購読していたミュージック・マガジンに対するしっくりこなさを解決するような解放感があった。そんな感情を象徴するような大好きなAxel Bomanを挟んで、ラテンの作品が続く。
 ラウンジなどでDJをする際にクンビアやダウンテンポなどを使用するのは自分にとって一個のカードと捉えている。だが、果たして自分は本当にそれを好んで聴いているのか、それとも道具として聴いているのかというような逡巡がひっそりとあった。1/18にscrabさんのお誘いでいただいた青山蜂でのDJの機会は、個人的にはそうした悩みを払拭し、自分はこうした音楽が好きだ!と気づくことができるパーティだったような気がしている。それはヴァイナルを使用することによって、曲のつなぎを技巧的にするという固定概念から少し解放されたところでラテンに向き合うことができたことも要因だとは思う。道具として使用方法に広がりを持たせたことが、結果的にそれ以外の音楽の受け取り方も拡大させる結果になった。
 ラテンからアジア、アフリカ、そして東欧まで連なるところの音楽シーンは欧米中心主義の見方で「ワールド・ミュージック」という括りを与えられて愛好されているが、最近、そうした方向とは違う形でそれらの地域や、その文化に影響を受けた欧米・日本の作曲家に共通する感性が見えそうな兆しを感じている。
(これはすごく危険なことを言っているということは自覚している、弁解すると当然、それぞれの文化の差異を見出していくことにも同様に関心がある)
そんな模索を象徴するようなCode K(1年以上前からヴァイナルを持っていたが、クラブで初めてかけてLowの良さに震えた)やMong Tongのプレイリスト入りである。

 そして1月後半のハイライトとなったのがSerge Gainsbourgである。GWにフランス/イギリス旅行を控えているということもあり、上半期の個人的目標の一つとなっている「フランスを学ぶ」こと。ボリス・ヴィアン「日々の泡」も読んだ。ゲンズブールやゴダールとともにアメリカ文化への強い憧憬を持ったフランス人作家という意味では、果たしてフランスについて学ぶという上で適当なのだろうかという疑問はあるものの、とにかく興味深いので学んでいる。
ゲンズブールについては昨日、映画「Je t'aime mois non plus」も遅ればせながら観た。ヴィアンとの二人に共通するのは、作品を包み込んで世間を攻撃する殻のような外連味と、その裏返しとして強調される痛々しいまでの純情。白状すると「日々の泡」を読んでいるときは正直意図を取りづらくて苦しい瞬間もあったが、解説には前文のような論旨が語られており、解決の緒を掴むことができるような気がした。ゲンズブールも聴いていて楽しみを見いだせない曲がある。だからこそある種のフランス人作家の見る世界には興味が湧いてくるのである。2年前に読んだときにあまりに面白くなさすぎて困惑し、そのまま本棚に居座っている「心臓抜き」も改めて挑戦したい。  
彼のエッセイ「夢かもしれない娯楽の技術」も読んでみたい。自分の行ける範囲では早稲田大学図書館くらいにしかなさそうなので、久々に大学の周りを歩いてみるのも良いかもしれない。
 話が拡大してしまったが、ゲンズブールの音楽作品の中で、アルバム史観的な論点で最高傑作に挙げられやすいのが「メロディ・ネルソンの物語」(Histoire de Melody Nelson)かと思う。数年前にArctic Monkeysの「Tranquility Base Hotel & Casino」のアイデアの源泉として挙げられていたので聴いて以来だが、今回はある瞬間からかなりしっくりくるようになった。今月ヴィアン以外に触れたフランス文学の作品として、アントワーヌ・ローランの「青いパステル画の男」がある。パステル画の謎に取り憑かれた弁護士の男が何かに突き動かされるように、絵のルーツとなる城へと車を走らせる。その時間にラジオから流れてくるのがアルバムの一曲目「Melody」であり、このベースラインとビート、そして囁くゲンズブールが気持ち良いほどハマるのである。この瞬間からこのアルバムは僕のフェイバリットとなった。
 それ以外の作品に見られるラテンやエキゾチカ、レゲエへのアプローチ、活動終盤のニューウェーブ/エレクトロ色の強い作品にしても、DJの中での関心やハービー・ハンコックの旅路とクロスオーバーする部分があり、興味をそそるものである。それぞれの関心は別方向から通過していき、ふとすると次の瞬間には忘れてしまう。だが、それらが偶然交点を結んだ部分は頭の中で色を持ち、交点同士が反応して見たことのないの線を描き出す。
 
自分は作曲者ではないので、音楽にしても映画にしても小説にしても、世の中にすでに存在するものを摂取しているにすぎない。だが、それぞれのタイミングや過去の積み重ねを反映していく連なりは独自性を持ちうる。それをフロアでの選盤という行為に落とし込んでいるというのが、僕がDJに大きな興味を持った部分である。
 こうしてくるとなんとなく「行動連想」のぼんやりとしたテーマ性が浮かび上がってくるようでもある。
 音楽も小説も映画もアニメもスポーツも、我々が楽しむことができるものはあまりに飽和しきっている。音楽や映画を人一倍愛してると自負する人でさえ、年々その学習行動は画一化され、この飽和時代に無限にあるはずのカラータイルのうち、せいぜい30種類くらいを慌てて聴いて選んで展示し合うだけの作業になっている。それはサブウェイで気分の野菜をピックして好みのサンドウィッチを作る楽しみと変わらない(サブウェイのサンドウィッチは美味しいし、健康にもいいだろうから、彼らは味覚が衰えているわけでも、ジャンクな楽しみに身を委ねているわけでもないだろうし、そうした切迫したうねりが時代を作っていくというのも事実である)。
 はっきり言ってこんな「文化行動のポストモダン化」とでの括れそうな問題提起は幾度となく繰り返されてきたものだろうし、「行動連想」の目標はアジテートや行動変容にあるわけではない。重要なのは文章全体が体現する論旨よりも、あるフレーズがなんとなく心に残ったとか、ちょっとプレイリストの並びが気になったというようなことである。


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