地理的距離と秋田からの車窓とちっぽけなスーパーヒーローの話
【0】
秋田駅のホームから動き出した新幹線こまち。車窓から去り行く視界の奥に、いままで何度も足を運んだ駅前の商業ビル「OPA」の姿も、とうとう小さく飲み込まれていった。
秋田新幹線は、日本で唯一スイッチバックをして走る新幹線だ。当該区間である秋田駅を出て大曲駅に到着するまで、乗客の座席は進行方向の逆を向いてセッティングされる。だから、窓際の席に後ろ向きに座ったぼくは、離れゆく秋田の街の姿を視界に捉えざるを得なくなってしまうのだ。うん。やはり少し、寂しい。
こうなってしまったら仕方がない。前を向くのはいったん中断。ここまでのぼくの秋田での色々を、文字通りに振り返ってみようと思う。
【1】
年に一度、必ずこの時期に訪れていた秋田の街。いままでならば無防備に「来年もまた来るからね」とか考えながら、無意識にこの車窓の景色を眺めていたものだった。
しかし今年は状況が変わった。私立恵比寿中学秋田分校という、冷静に考えてみたら何を言っているのかよくわからない名前のこのイベントが、9年間という歴史に幕を閉じることになった。伴い「来年もまた来るからね」というライトでシンプルな一言に、だいぶ重みが付いてしまったのだ。
約10年間にわたる秋田分校。
最初の年、ぼくは千葉県からひとりぼっちで訪れた。
秋田なんて遠い所までアイドル様を追いかけるようになったら、自分は取り返しのつかないオタクになってしまう…。ライブ開催の報が流れた頃のぼくは、まだまだライトなファンであって、そんなことを考えていた。しかしというかやはりというか、ライブの当日には秋田駅にいた。今まで来たことのない遠い土地のバスターミナルで、ひとり肌寒さと心細さにしんなりと震えていたことを覚えている。
エビ中を応援するにあたって、宿泊必須の距離の遠征なんてしたことがなかった。一緒に行動するような友達どころか、挨拶が出来るような知り合いすらも皆無だった。それなりの上級生になってから彼女らのステージにはまった人間として、周りとコミュニケーションをとることに気後れしてしまっていたのだ。
ただ、エビ中の応援の仕方が自分なりにわかってきたタイミングだったので、とにかく彼女らのステージが見たい、とにかく何らかの行動をしたい、そんなタイミングと重なったことが、出不精で怖がりな自分を衝き動かしたのだ。
初年度の学芸会のステージは楽しいものだった。
なまはげや地元の民謡歌手やご当地アイドルが登場し、うまい具合に秋田ならではの特別感を盛り上げてくれた。中学生の設定の彼女たちなのだから、普段の演目にちょっとしたアカデミズムを加えてみたらどうだろうか。そんなぼくの勝手な欲求にしっかり応えてくれたのが、この公演だったのだ。見事なものだった。
そして、オンラインでうまいこと知り合えた地元のおとなのファミリーさんと二人で、居酒屋にてお互い生涯初めてエビ中のことを語りながら感想戦をすることが出来た。ぼくがひとりぼっちではなかったこと。そのことをこんな離れた土地で知ることになった。
翌年また秋田分校の開催が告げられると、こんどは一秒たりとも躊躇することなくチケットを申し込んだ。前年に秋田での遠征を楽しむことのできたぼくには、怖いものなんてなくなっていた。
以降の年もそうだ。JRの「お先にトクだ値」を利用する。ホテルはとにかく早めに抑える、帰途では荷物を宅配便に預ける。便利な旅のワザもどんどん覚えていった。
主催者側の力のかけかたも、年を追うごとに強くなっていった。
ステージではなまはげ・民謡歌手・ご当地アイドルのほか、ご当地タレント・キャミソウルブラザーズやご当地ヒーロー・超神ネイガー、地元名門明桜高校の吹奏楽部など、これでもかと秋田を賑やかにする人材を登壇させ、ついには佐竹秋田県知事まで引っ張り出した。
駅前で迎えてくれるOPAの垂れ幕は「お帰りなさい」と語りかけ、メインストリートに立ち並ぶノボリは数の力で圧倒し、キャッスルビジョンでのMV放映は街に彼女らの歌を響かせた。
秋田の街はさらに続々とおもてなしを用意して、ぼくにひとりぼっちでいることを許してくれなくなった。
トピコでのお買い物優待券。秋田分校芸術祭。分校図書室。分校映写室。文化祭。移転後のABS秋田放送局舎の壁面では、ビッグなメンバーの顔写真が微笑みかけてくれるようになっていた。分校専用の新幹線まで運行された年だってある。
こういった分校の大きな展開を見て、秋田の一般の方が「今年もえびちゅうきたんかー」といった話をする様子を見るようにもなった。
ぼくらの応援する彼女らのことを、知ってくれている街がある。ちょっと大袈裟かも知れないけれど、そのことがとても誇りに思えたのだった。
そしてこの流れと競うように、ぼくにも一緒に語らう仲間が徐々に増えていった。
初年度は2人で行った感想会も、3人増え5人増え、最終的には20人ほどの友達と一緒に乾杯の声を上げる規模になった。先述のおとなファミリーさん(長いので以後「格闘家」とする)をはじめとする地元秋田の人、東北の他県の人、関東や中部の人、西日本の人。みんなで笑ってきりたんぽ鍋をつついたり、秋田の地酒の注がれたお猪口を傾けたり、なまはげに急襲されてみたり。
ファミリーの側でも「分校はほかと違う・違った良さがある」といった言説が年ごとに増していった。ツアーで周る各地方都市公演と比べて、とにかく前泊をする者が多い。桁違いに多い。開催前日は金曜日だぞ。みんな、仕事はどうしたんだ仕事は。
そんなぼくは前泊はもちろん、後泊はおろか後々泊まで行うようになっていた。金曜日から月曜日まで秋田だ。仕事はどうしたんだ仕事は。
ライブや飲み食いだけでなく、仲間と共に、角館や男鹿半島など県内各地への観光にも出かけてみるようにもなった。出先でえびちゅうファミリーや、えびちゅうの話題に応えてくれる人にも出会うようになって、分校の取り組みの成果を(勝手に)実感することもできた。
──ぼくは、ここにいても良いのだな。
秋田分校の取り組みが生んだ全ての空気が、いつしかぼくに、そんな安心感をもたらしてくれていた。
【2】
テレビで秋田の話題が流れると、良いニュースにはホッとして、悪いニュースには眉をしかめ、痛快なニュースには気分が良くなるようになった。そうだよ知事の言う通りだよ。そんな理不尽な電話はガチャンと切るべきだ。絶対に間違っていない。
故郷や過去に住んだことのある街ではなくて、それ以外の、自分の生活に直接の関わりがなかった街のニュースで、こんなに気持ちが動くことなんてなかった。
きっとこれは、この街が好きになったから生まれた感情なのだろう。ちょっとこっぱずかしいが、それで間違っていないはずだ。
しかし、秋田という街が置かれている状況というのも、なんだかんだでアタマに入っている。
たとえば人口減少率が大きくなっているという話などは、関東にいてもニュースで流れてくる。かつて地元の格闘家には「秋田新幹線が出来たおかげで行き来するのは便利になったが、かわりに色々な会社の秋田支店がなくなって、彼らは仙台などの拠点からの日帰りでビジネスを進めてゆくようになった」という重い話も聞いた。リモートワークの形が発達したいまは、さらに来訪者が減っているのかもしれない。
何か秋田のために、ぼくにも助けになることはできないだろうか。そんな大それたことを考えることもある。たとえばストレートに、いっそのこと自分で移住とかしてしまえばいいのではないか、とか。
しかし勿論そんな話は単純にはいかない。ぼくにはぼくの千葉県での仕事があり、それなりの矜持があり、生活がある。簡単に動くことはできないのだ。
冷静になって考えてみる。
実は自分が好きな秋田というのは、「分校が行われている最中の秋田」でしかないのではないか。それを確かめるための小さな一歩として、あえてここ数年は分校の翌々日まで秋田に残って、分校の諸々の片づけが済んだ町の様子を見てみるようにしたのだ。
結果、正直なところよくわかんない。泊数が増えたぶんだけ、おいしいものを食べられる回数が増えたことは確かだ。
あともうひとつわかったことは、分校のノボリやABS局舎のメンバーの写真が撤去されたあとも、やはり秋田の皆さんによる秋田の生活っていうのは、恙なく続いてゆくという単純なことだ。
皆さんには秋田の色々があって、ぼくには千葉の色々がある。
【3】
秋田分校で知り合った秋田の友人は、みんなこの町で懸命に仕事をして、実直に生活を送っている。
格闘家は強靭な身体を武器にいつも昼夜なく忙しく働いていた。体を壊さないか心配でいたのだが、最近転職した模様で少し時間に余裕が出来たようだ。過去にぼくの分校ブログを見て連絡をくれた友人もご多忙だが、地元の魅力を発信し続けつついぎなり東北産のこともしっかり追いかけている。知り合った経緯は忘れたがメタルとプログレとエビ中が好きだというロッカーは、いつも県内の様々な地域に飛び回って仕事をしたり、ラーメンを食べたりしている。
秋田の街は、日頃から彼らがしっかり回しているのだ。
ここで思い出すのが、2017年に行われた三度目の秋田分校『学芸会は3杯目が一番美味い』で垣間見た光景のことだ。
この年は100人を超える出演者が舞台を沸かせ、エンディングではステージに入りきらなかった出演者たちが客席から応援をするボーダーレスな状況になった。
このときに秋田のご当地ヒーロー・超神ネイガーがそのコスチュームのまんまで、舞台下からファミリーたちと一緒にステージを応援する光景が、一瞬カメラで抜かれた。サイバーメタリックなボディではあったのだけれど、一般のファミリーと彼の姿とには、良い意味で違いなんてなかったように思えたのだ。
これが恣意的なものなのか偶然そうなったのかはわからないけれど、秋田の街を動かしてゆくスーパーヒーローっていうのは、ステージの上にいる手の届かないような存在なのではなくて、ぼくらのすぐ隣にいつでもいてくれる存在のことなのではないかなと。その光景をみて、ぼくはそんな思いに至った。
えびちゅうさんの歌にある通りだ。誰もがみんなスーパーヒーローたるパワーを秘めている。
秋田の街で毎日を暮らし懸命に働いて、毎年感想会のセッティングをして待っていてくれている彼らが、実はスーパーヒーローなのかもしれない。
そんな彼らのもとになんだかんだ言って日本中から毎年続々と集結して来るぼくらも、ヒーローの一味だと言えないこともないのなのかもしれない。
酔っぱらって履いてきたクツを居酒屋で紛失したり、酔っぱらって上着なしで氷点下間近の空気の中で失踪したりするぼくらが、ヒーローであるワケがない。
まったくもってその通りなんだけれど、でも、ぼくらはみんな普通の人というかっこいいコスチュームに身を包んで、秋田やそれぞれ自分の地元で、普段のことを当然のようにこなす。それは、とても素晴らしいことなのではないだろうか。
だって、ヒーローはいつも「当然のことをしたまでですよ」なんて言うじゃないか。
だからぼくらもいつもどおり、まずは自分の当然の生活をしっかり守る。そしてたまに秋田に集結して、正義のパワー(という名の飲食費)をどーんと放出する。ひとまずは無理せずそのあたりから、秋田のためにできることをやっていければいいのではないかな。当然のこととして。
【4】
ひとりぼっちだったぼくを、ひとりぼっちにさせなかったのが秋田の街だ。
好きだと思える街が出来たのは、生涯できっと初めてのことだ。
取り返しのつかないようなオタクになんて、なってたまるかと思っていたはずなのに。なぜだか引き寄せられるようにこの場所へ来て、そしてたくさんの人に出逢って、たくさんの光景を目にしてきた。
そんなぼくのようなちっぽけな一人ひとりを、約10年にわたって繋ぎ続けたのが私立恵比寿中学秋田分校だ。
毎年のステージで起きることや、秋田だからこそ揃う仲間との語らいの時間は勿論、訪れるごとに大きく動いてゆく秋田の街の姿を見ることも、本当に刺激的で楽しいものだった。
取り組みに関わった皆様の情熱は、とても熱いものだったはずだ。
アーカイブ展で確認した分校に参画した様々な人の言葉が、その裏付けだ。そして、2018年の副題である『この町と人と学芸会が好きだから』という言葉は、いまだど真ん中への剛速球のストライクで、ぼくの打席に投げ込まれ続けているのだから。
関わってきた全ての皆様、お疲れさまでした。
ほんのちょっとだけ手が届かない所に行ってしまった、大きなヒーローの姿を勝手に思い出しつつ。あなたが目指していたもの、たぶん欠片ぐらいならばぼくも受け取ることが出来たと思っています。
ありがとうございました。
そういったことを回想している間に、いつの間にか新幹線こまちは大曲駅をだいぶ離れて、車窓の風景は普段どおり前向きに流れて通り過ぎるようになっていた。
分校は終わってしまったけれど、ひとまず、これからも秋田のことは好きなままでいられそうだ。こまちに負けず、なるべく前向きに物事を考えられるように頑張ってみよう。
来年もまた、来るからね。
…本当にこまちの中で書き始めたんですけどね。
完成するのが年末になりました。
それではそろそろ寝ますです。
2024年もありがとうございました。
おやすみなさいグー。