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鎌倉の浄智寺

私は、仏教について、全く詳しくはないのだけれど、昨日、鎌倉の臨済宗浄智寺という寺院に行って、仏様を見たり、禅のお話を聞いてきたので、そのことについて書いておこうと思う。

浄智寺とは、北鎌倉駅を降りた直ぐにある「円覚寺」から徒歩5分程度にあるお寺で、山全体がお寺になっているような雰囲気である。鎌倉時代からの(730年の)歴史を持ち、江戸時代末期には一度はやや廃れたようだが、明治時代にまた復興。関東大震災で崩壊。そしてまた建て直しということを繰り返してきたお寺のようである。

やや小ぶりな本堂の中に、三体の木造の仏坐像、阿弥陀如来・釈迦如来・弥勒如来が祀られている。阿弥陀様は過去、お釈迦様は現在、弥勒様は未来を表している、と住職さんからお聞きした。どの仏様も、とても優しいお顔をなさっている印象だった。

仏教では、仏様それぞれ役割があるようである。


また、境内奥の洞窟には、七福神の一つ 布袋様が祀られていた。

本当、仏教や仏様のことを知らないので、研究がてら書いておく。

仏像とは、仏教の信仰対象である仏の姿を表現した像。 仏の原義は「目覚めた者」で、「真理に目覚めた者」「悟りを開いた者」の意である。初期仏教において「仏」とは仏教の開祖ガウタマ・シッダールタを指したが、大乗仏教の発達とともに、弥勒仏、阿弥陀如来などの様々な「仏」の像が造られるようになった。 ウィキペディア

ということは、「目覚めた者」とは過去の仏様・阿弥陀様で、「真理に目覚めた者」は現在の仏様・釈迦様で、「悟りを開いた者」とは未来の仏様・弥勒様なのかなあ。。

私は、「真理に目覚めた者」の駆け出しあたりに位置するのかなあ・・仏教とは奥が深い。

仏像の歴史

世界初の仏像は、紀元1世紀にインドでつくられた釈迦如来像。仏教の祖、釈迦の姿を像に写したものです。紀元前5世紀ごろインドに生まれ、悟りを開き、仏教という形でその教えを広めたお釈迦様。仏像はその姿を崇め、信仰を深めるためにつくられたものなのです。仏像の制作は釈迦の入滅から500年もあとのことですが、これはお釈迦様があまりにも偉大だったため、畏れ多くて像になどできなかった、と考えられています。この500年の間は、お釈迦様の足を象った「仏足石(ぶっそくせき)」や武具の「法輪」、釈迦誕生のシンボル「蓮の花」などを人々は崇めていました。

私も最近、お釈迦様の本を読んでいるので、お釈迦様については多少知識がある。お釈迦様は、仏教の開祖である。

この上の記述でもあるように、もともと像は存在しなかった。足の形の石であったり、蓮の形であったりしたようである。では、どうして、仏像が作られるようになったのか?お経が読めない人でも一目見ただけで仏教の教えや、仏様の慈悲の心が伝わるようにと作られるようになったのが仏像。 仏教伝来以来、日本ではあらゆる人の苦悩を救うため数多くの仏像が作られた。確かに、何か苦しいことがあると「神様〜、仏様〜」って祈っているような気がする。でもそこに、仏像のイメージは頭の中にない。しかし神様〜と言った時に、足の形をイメージするより、なんとなく人の形をイメージした方がイメージはしやすい。

例えば、キリスト教の人が、何かお祈りするとき、キリストの像がなくて、空気にお祈りするよりも、キリスト様の形があった方がイメージしやすいのと同じだと思う。

とにかく、一般の人たちが、仏教の教えをイメージしやすくするために仏像というものを作ったという歴史がある。

次に、浄智寺で祀られていた3体の仏様について見ていこう。

過去を表している阿弥陀如来とは・・お釈迦様の本師・本仏(先生)。阿弥陀如来の「如来」は仏様という意味の言葉。 無限の寿命を持つことから無量寿如来ともいいます。限りない光(智慧)と限りない命を持って人々を救い続けるとされており、西方極楽浄土の教主。

現在を表している釈迦如来とは釈迦は北インドの人物で、歴史上に実在した仏陀、仏教の開祖。「大宇宙には地球のようなものが数え切れないほどあり、そこには無数の仏がまします」と言って、自分の師匠「阿弥陀様」を紹介されたとされている。

阿弥陀仏と釈迦の関係は、師匠・生徒の関係。子弟の関係(いや〜。。知らなかった。全く知らなかった)お釈迦様の方が上だと思った。

次に、未来を表してる弥勒如来とは、古代インドではマイトレーヤと呼ばれ、慈悲から生まれた者を意味している。仏となることを約束されているため、弥勒仏・弥勒如来と呼ばれることもあります。釈迦が亡くなられてから56億7千万年後に仏となりこの世に現れ、釈迦の教えで救われなかった人々を救済するといわれている。

なんとなく、イメージできた。

お師匠さんが阿弥陀様で、生徒がお釈迦様で、そのまた生徒が阿弥陀如来。そんな感じなのかなあ。

次に、洞穴に祀られていた布袋様。お腹がぽちゃっとされていて、にこやかで、指をさして笑っている。本当は指刺している先にある月は、人々が求める真理を意味しており、上向き指差しである。浄智寺での布袋様は近場を指差して笑っていらっしゃる。住職様いわく、「あなたが求めている真理はすぐ近くにある」という意味らしい。それは本当に確かなことで、願い事や、自分で見つけて進むべき道は、案外自分の中ですでに決まっていて、それを誰かに背中を押してもらって進んでいきたい、というのが本音なのである。

ということで、仏教や仏のことは、ど素人であるが、ご縁あって由緒ある寺院に導かれたので、そのことについて記述してみた。


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