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1.4 適切成長論

経済成長を目標とすること自体を批判しないのであれば、何を批判するのか。
まず、経済成長の目標が漠然としており、全体として過剰で、適切な水準ではないのではないかという批判である。この批判については本論考の本筋に関わることではないのであるが、言及しておきたい。
前提として、適切成長という考え方について説明する。これは、国ごとに適切な経済成長の度合いがあるのだとする考え方である。国によって、資源の有無や人口構造等、様々な条件が異なっているなか、どの程度の成長がふさわしいのかという議論となる。
こうした観点に立ったとき、日本はどの程度の成長が望ましいのだろうか。日本は非常に成熟した社会であり、大変な少子高齢化社会である。移民への門戸も大変狭く、今後新しい風が吹き込まれる可能性は低い。こうした事実を鑑みるに、高い成長を期待するのは難しい。
それにもかかわらず、日本はいまだに経済成長を第一の目標として政策を形成している。バブル崩壊以前の経済成長の記憶がある世代がリーダーシップを発揮する現在、そうなることもやむをえないのかもしれないが、困難な目標の探求はひずみを生みやすいのも事実である。
この失われた30年間の中で、金融緩和等のマクロ経済施策や、構造改革等、様々な試みがなされてきたが、期待された水準まで経済成長率が回復することはなかった。むしろ、これらの改革が追及されたことにより、逆説的に、30年間は“失われた”と呼称されるようになったのではないか。つまり、身の丈に合った経済成長ではなく、それを上回る理想を求めたがゆえに、現実とのギャップに苦しむ羽目になったのである。
新しい時代になったのだから、これを機に、日本が目標とする社会の在り方を見直すべきである。最早この国に若さを求めてはならない。そうではなく、成熟した国家としての在り方を模索すべきなのである。日本では無意識のうちにアメリカをモデルケースとしてしまうことが多いが、残念ながら性格は全く一致しない。まだヨーロッパの方が目指すべき在り方に近いようにも思うが、日本は超高齢化社会という観点から他国の先を行く存在であるため、やはり独自のスタイルを確立していくべきなのだろう。
政治は、それこそそうしたグランドデザインを提示する役割を担うべきなのだと思うが、全くできていない。悲しいことに、打ち出される政治標語、例えば“一億総活躍社会”や“デジタル田園都市国家構想”等は、昭和からの流用である。未だにこの国は過去の幻影にとらわれすぎており、未来を見据えて動けていないのである。

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