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あなたの多様性の範囲とは
#7正欲
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多様性の許容範囲?
私は朝井リョウの作品が好きで、本作は原作も映画も観た。
本作では性的嗜好を始めとする、家庭環境、容姿、など
生まれ持った環境に苦しみながらも向き合う人々が描かれている。
また、本作では、【多様性】というものが大きなテーマとして取り上げられている。
現代社会において重要視されている多様性。
自分は、多様な意見や文化を受け入れよう、柔軟であろうとするが、
それは、”自分が理解できる範囲”での多様性に対する受け入れにすぎなかった
のではないのだろうか。
そして何故私たちは何故許容する側なのだろうか。
もし、自分の目の前に自分の想像の範囲を超える【モノ】を抱える人と
出会った時、果たしてその時も多様性として受け入れることはできるのだろうか。
”観る前の自分には戻れない”というキャッチコピーが掲げられいるが、
本作では想像を絶する様々なことが起こる。
そして見手はその問題に向き合おうとする。
そして、その先には過去の自分とは異なる意見を持つようになる。
確かに観る前の自分には戻れない。
人は分からないものを恐れてしまう
上記で述べた通り、
人は自分の考える範囲内の出来事は理解しようとする。
しかし、自分の想像の範囲外の出来事を目にした時、
分からない、理解できないという不安と恐れが生まれる。
想像の範囲を超えることが起こった時の衝撃と、
自分たちが理解できないものへの恐れにより
「排除」という形を生み出す。
人間、誰しも想像を超えることに出会ってしまった時、
恐れるのことは当然だ。
しかし、そのことに対し排除ではなく
例え理解できなくても、
受け入れることが必要なのではないだろうか。
犯罪と嗜好は別問題なので
本作では、マイノリティな性的嗜好者が描かれている。
そして彼らを異常とみなし、
犯罪者として扱うシーンがある。
しかし、自分の生まれ持った嗜好に関して、
他人がどう言おうが、変えることはできない。
ましては、自ら選ぶこともできない。
あなたがたまたま、日本人として生まれた様に。
しかし、マジョリティー側は理解ができない為、
マイノリティの嗜好の持ち主に対し特殊ではなく、
”危険であり異常である”という恐れの認識をしてしまう。
そして、このような性的嗜好者に対し、
常に関連づけられてしまうのが
”犯罪”だ。
本来、嗜好と犯罪は全くの別問題であるが、
人々はやはり理解できないものに対し、
恐れを抱いてしまうため、
マイノリティな性的嗜好者を”犯罪者”もしくは”犯罪予備軍”として
見なしてしまう。
しかし本来は、自分の中の趣味であり、
他者に対して被害を加えていない限り
それは個人の勝手で、なんの犯罪行為にもならない。
性的嗜好や他の個々の特徴と犯罪は全く別の問題でありながらも、
理解しようとしないことで
当然の如く犯罪と見做すのだ。
本当の多様性とは
私たちは、このような誤解や偏見から
他人を排除せずに受け入れようとすることが、
本当の多様性を尊重するということなのではないだろうか。
例え、自分が理解できない想像を絶することが起こっても、
それが犯罪行為でない限り、排除してならないのだ。
あなたが当然の如く行なっていることや、あなたの嗜好も
他者から見ると特殊な可能性だってあるのだから。