楽しさと危険のバランス~回旋塔を思い出す

娘と公園遊びに出かけた。
都内の大規模公園内「みんなの広場」にはいくつか遊具があって、多くの小学生ぐらいの子どもたちが走り回って遊んでいる。娘のお気に入りは回転遊具「ぐるぐるマウンテン」。円盤上に7~8人ぐらい座れるようになっている回転させる遊具で、回す子、回してもらう子、見知らぬ同士だが自然に交代しながら思い思いに楽しんでいる。学校も年齢も国籍も越えて、いつの間にか友達になっている。

自身の子ども頃の近しい遊具は「回旋塔」だったと思い出す。さながら回るジャングルジム、交代しながら回転させたり、ケイドロ遊びの檻としていた。いまや「回旋塔」は見かけなくなった。そういえば「シーソー」さえ、なかなか見かけない。昔の遊具は減っていく。一定以上の世代にとって、多くの人には懐かしく楽しい思い出とともにあるが、事故など経て危険な遊具として撤去されてきた事情もあるのだから、一部の人にとっては見たくない遊具かもしれない。

いまさらノスタルジックに撤去に反対とは言わない。事故は自己責任だと嘯く感じもない。ただ、実のところ、遊具に限らず、この社会に「危なくないもの」などない。「危ない」という理由で無くすのが”正”なら、すなわち、何の物質も存在しないのが理想の社会という帰結になりかねない。少なくとも、撤去以外の方法を編み出したり、少なくとも、撤去で失われるものと衡量して判断するのは、文明社会なら必要である。
自動車、SNS、お酒など事故は後がたたないけど廃止されない。今日もあちこちでトラブルを巻き起こしているが、利便性の威力があれば、単なる悪者ではない。
では、逆に「回旋塔」や「シーソー」の撤去で引き換えに何の価値を失ったのか、少し考えておく必要がある。

「楽しさと危険を同時に身体で感じるセンス」、私たちが回旋塔で学んでいたのはそんなことだったかもしれない。グルグル回るワクワクと、コントロールの効かなくなったときの恐怖。踏み込まないと面白くないし、やり過ぎるとふきとばされて怪我をする。思えば、自身も友人も擦り傷や打撲は少なくなかった。楽しさと危険のバランスを身体で覚える機会だったのかもしれない。
アラフィフの自分にとって、体力や瞬発力は小学生の娘に徐々に敵わなくなってきた感はある。ただ、危険をギリギリで避ける感覚や集中力はまだまだ衰えない自覚はある。もっと言えば、私よりふた回り上のシニアの方には今でも私自身敵わないと感じることはある。生きる底力の差はなかなか埋まらない。
この身体感覚値をどう娘世代に伝授するか。
回旋塔はない。ただ、若いうちからワクワクと危険のバランス感覚を身体知としてつかむことは大事な気がする。
闇バイト、SNSトラブル、悪徳商法など巧妙な危険があふれている。できることなら、本当に身の危険につながる事件・事故の経験をする前に、センスを磨く機会を身近な体験でできる環境を整える、社会として余力や責任を持たねばならないと感じている。

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