身体に耳を傾ける
10月も半ば、肌寒い日が増えてきた。肌寒くなってくると、心なしか思考も感性も深くなり、もっといろいろ学び、深めたいと感じる。読書が増えたり、人生プランを考え直したり、思えば、この季節は毎年そんな感じでいる。同じ感覚を持つ方は少なくないのではないか。古来、読書の秋、芸術の秋などというがうまく言い当てている。この秋の感慨深さが一年間保てるなら、自分にはもっと芸術と博学が備わるに違いない。
少し哲学的な振返りをしながら、そんな思考は、自分が変化したからではなく、季節が変化したからに他ならない、と我に変える。逆に言えば、つまり、思考や感性は環境に合わせて、簡単に無意識に変化する。自分では一貫していると思っていても、環境にかなり引きずられて生きていると自覚し直す。よくよく考えると、かなり重大な事実である。
人は頭でなく身体で考えている、と聞いたことがある。確かに季節・環境が変わって「思い」が変わる実感はある。まさにそうかもしれない。しかし、頭の判断が無意識に、身体にねじ曲げられているとすると、なかなか悩ましい。たとえば、温暖化の進む世界では、人類の文化・芸術・思想など大幅に変化しかねないと妄想し始め、かくいう自分の思考さえ、環境のせいかもしれず、心もとない感じがしてきた。
さらに、頭の判断が正しいとも限らない、と思いはじめると、もっと複雑になる。案外、人間も動物、むしろ身体の判断が最適かもしれない。これはなかなか悩ましいと思い、筆をとめて熟慮する。
頭と身体で、自身に対しての判断方針が一致している状態を目指す、これが自分という個体にとって最善策ではと、思いはじめた。
たとえば、身体が良い判断しそうな環境に自分を置いてから判断するよう心がける、あるいは、良い判断をしそうな身体の状態を整える、どんな環境づくり・身体作りをするかは、頭の判断にて大いに頼る。これなら、頭と身体が共創できそうである。
そうすると、温泉に入る、おいしいものを食べる、というのは最適かもしれない、とあらためて合点がいく。暑い日は外に出ない、人混みに出かけないなど、無精のようでいて理にかなっている。先日、妻の好みで自宅浴室のシャワーヘッドを新調した。美容コーナーの高級品、これにどれぐらい意味があるかと思いつつ、毎晩のミストシャワーの癒しの積み重ねは、身体による思考の判断を磨くには案外小さくない、人生を変える一助かもしれないと思い直す。
身体に耳を傾ける、あらためて大事にする。
身体が自らにそう呼びかけ、秋ゆえか、頭もそれに同調する。
季節問わず、自身は最善の判断を継続していられるか、自分を観察しようと決め、この感じを文章に落としてみる。