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家族の暮らし創りについて考える

最近、「家族の暮らし創り」について考えている。

「暮らし」という言葉で思い浮かぶもの…。

江戸時代の暮らし、縄文時代の暮らしと言った、時代を背景を元としたものや、
田舎の暮らし、都会の暮らしと言った地域を背景としたもの。

他にも一人暮らしといった言葉もある。

こうやって考えてみると、
暮らしには、人が生活している環境的なことや、
その中での過ごし方といったものが含まれているようだ。

家族の暮らし

家族が過ごす空間と過ごし方という観点で「家族の暮らし」ということを考えてみる。

家族の暮らしと対比と言うことで、一人暮らしを考えてみる。

誰にも邪魔されず好きなことが出来る悠々自適な暮らし。
反面、すべてのことを自分でやる必要があるし、
逆にやらないということを選択することも出来る。
すべて自分一人で選択出来る暮らし。

そして、家族の暮らし。

パートナーと、子どもと、親との一緒の暮らし。

楽しいことがあったり、大変なことがあったり。

相手のことを考えて何かをやることもあれば、
相手のから何かを頼まれてやることも。

自分一人だけの選択では出来ない暮らし。

家族という中で出てくる役割

二人以上の人が関わると何かしら「役割」が発生する。

夫、妻、父親、母親、子ども。形となって現れてくる役割もあれば、
ゴミ出し当番。料理当番という機能に紐付く役割もある。

叱るのは波平さんで怒られるのはカツオ君というのも一つの役割といえるのかも。

そんな役割には対応する観念が紐付いている。
例えば、ゴミ出し当番はゴミを出すという観念。

同様に、父親、母親、子どもにはどんな観念が紐付いているだろう。

 父親は家族を養うもの。
 母親は家庭を守るもの。
 子どもは勉強するもの。

こういう観念が出てきたりするかな

ところで、これって正解だろうか?

何となく当たり前だと思われている役割とそれに対する観念。
本当に当たり前だろうか?

家族の暮らし

家族の暮らしは、二人以上の最小の人数での暮らし。
複数の人の関わり合いなので、もちろん役割が出てくる。

この役割にたいする観念を一方的に押しつけているとしたら、
そこに歪みが生じる。

スーパーで買った刺身は皿に盛るのは妻の役割だ。

これが成されないということで

刺身が皿に盛られない。
→ 盛るのが当たり前という不満を持つ。
→ 不満を相手に伝える。
→ 相手から反発を受ける。

そうやって、お互い心地良くない気持ちで過ごしていたらとても残念。

刺身が皿に盛られない
→ 刺身を皿に持ってもらったら嬉しいと伝える。
→ 盛ってもらえるかもしれないし、自分で自分で盛るかもしれない。
 盛らないで終わるかも。
→ 盛られたら嬉しいという気持ちで食べる。
→ 嬉しい気持ちで食べるので、お互いが嬉しい気持ちで居られる。

自分の観念を押し通して
不満を重ねていく関わり合いを選ぶか、
心地よさを重ねていく関わり合いを選ぶか。

違う文化、観念をもった複数の人だからこそ、
役割の観念に固執せずに、一個一個話をしていく。

家族の暮らしを創るということは、
そうやってお互いの心地よさを見つけていくことかも。

そんなことを考えている。

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