【歴史のすみっこ話】良い旅を、チャップリンさん~日本へ行こう(完)1986文字~
1936年(昭和11年)、二・二六事件の後に二度目の来日をした喜劇王チャールズ・チャップリンの傍らに日本人秘書の高野虎市の姿はありませんでした。
18年間にわたり、チャップリンを支え続けた高野虎市は、この時すでにチャップリンのもとを離れています。
原因は、映画「モダンタイムス」・「独裁者」でチャップリンと共演し、事実上の妻であった(籍はいれていない。1942年に別れる)女優、ポーレット・ゴダードとの衝突にありました。
贅沢好きのポーレットの金使いの荒さに、秘書としてチャップリン家を取り仕切っている高野虎市が、苦言を呈したことが原因でした。
チャップリンも浪費家ではないので、高野虎市の苦言に頷くものの、ポーレットを愛しているため、強くは言えません。
あるとき、ポーレットが購入した毛皮が配送されてきた際に、高野虎市は支払いを拒否し、ポーレットを𠮟りつけたところ、ポーレットは激怒し、ポーレット側についたチャップリンもかんしゃくを起こし、高野虎市に「お前はクビだ!」と叫んでしまいました。
「お前はクビだ!」ーそれは、高野虎市が、今までに何度も聞いた、いつものチャップリンの言葉でした。
聞き流せばそれで済んだかも知れません。
ですが、高野虎市は、秘書を辞めることをチャップリンに申し入れたのでした。
チャップリンは長年仕えてきた自分よりも、ポーレットを選んだー。
チャップリンの言葉は高野虎市にとって重いものでした。
後日、後悔したチャップリンは何度か高野虎市に会いに行きます。
ですが、チャップリンは他愛のない会話をすることしかできませんでした。
二人はあまりにも不器用だったのかもしれません。
1934年5月16日。高野虎市はチャップリン撮影所を辞めました。チャップリンは高額な退職金と、ユナイト日本支社長のポストを高野虎市に与えました。
その後、第二次世界戦中に、ロサンジェルスの日系人社会の有名人だった高野虎市は、スパイ容疑で逮捕され戦争が終わってもしばらくは収容所にいれられます。再び自由を手にしたのは1947年9月30日でした。
1960年。日本でチャップリンの『独裁者』がようやく初公開されました。
1952年に、実質的にアメリカから国外追放され、スイスに居を構えていたチャップリンが1961年7月に来日します。
チャップリンにとって4度目の、そして最後の来日でした。
戦前に李香蘭として映画で絶大な人気を誇った山口淑子がチャップリンを出迎えました。
山口淑子は1951年にハリウッドでチャップリンと会っており、その時に持って行った鯉のぼりを受け取ったチャップリンは、自分の子供たちに『これはペーパーフィッシュ。こうするんだ』と鯉のぼりに風を入れるため家の中を走って、子供たちを喜ばせたと言います。
ですが、「日本には女性はキモノという美しい服をきていて」と夫人や子供に説明していたチャップリンにとって、高度成長期の日本は高野虎市から教えられ、自らも見聞した、かっての日本と大きく姿を変えていました。
チャップリンは、憧れを抱いていたかっての日本の面影を、東京で見つけることはできませんでした。
落胆したチャップリンですが、京都にまだ美しい日本の姿が残っていたことが、その心を慰めました。
余生を故郷の広島で送っていた高野虎市は1971年3月17日に脳栓塞の発作がもとで静かに息を引き取ります。
1972年4月。アカデミー賞特別賞に選ばれたチャップリンは、もう二度と来ることはないと思っていたアメリカに渡りました。
NHKの依頼で現地に行っていた黒柳徹子は、振り袖姿だったため、授賞式の会場でチャップリンと直接会う機会を得ます。
「ジャパン!」チャップリンは、黒柳徹子の手を握りしめて、目に涙を浮かべました。
「天ぷら、歌舞伎、京都・・・」数々の日本語を並べ、「日本のことは決して忘れない」そうチャップリンは言いました。
1977年12月25日、スイスにてチャップリンは睡眠中の脳卒中で亡くなります。
チャップリンと高野虎市、二人がアメリカでともに過ごした期間は、二人の人生にとって、よい旅の時間だったのかも知れません。
■参考資料
『チャップリン暗殺 5.15事件で誰よりも狙われた男』 著:大野 裕之
『チャップリンの影 ~日本人秘書 高野虎市~』 著:大野 裕之