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歴史の断片-1918.初秋- 歌を忘れたカナリア ー 西條八十 (1125文字)

大正7年(1918年)夏ーー。
生活環境の厳しさから逃れるため、新橋駅前で天ぷら屋を営んでいた詩人、西條八十のもとを、夏目漱石門下の小説家、鈴木三重吉が訪れます。
(この時、西條八十は天ぷら屋の経営はやめていて、出版社の運営と株取引が主な収入源だったようです)。

なぜ一世を風靡している小説家の鈴木三重吉が自分のところへーー?

内心疑問に思う西條八十に対し、鈴木三重吉は、童謡詩の作成依頼をします。

鈴木三重吉は『赤い鳥』という自らが創刊した雑誌の意義を熱く西條八十に語りかけます。

「私たちはもっと芸術味豊かな、即ち子供等の美しい空想や純な情緒を傷つけないでこれを優しく育むやうな歌と曲をかれらに与へてやりたい。で、私の雑誌ではかうした歌に、『童話』に対する『童謡』という名を付けて載せてゆくつもりだ」

「西條八十」 著:筒井清忠 より引用

鈴木三重吉に熱意にうたれたのか、西條八十は依頼を受けることにしました。

最初に西條八十が書いたのは『薔薇』という童謡でした。

そして、大正7年(1918年)初秋ーー。娘を抱いて上野不忍池付近を散策していた西條八十は、ふと子供の頃のクリスマスに近所の教会で見た情景が浮かびました。

教会の中にあったクリスマスツリーを飾る電球の中のひとつだけ、灯かりの点いていなかったことを。

それはあたかも、一羽だけ歌うことを忘れたカナリアのようなー。

歌うことを忘れたカナリアーそれは、生きていくために株取引などを行い、詩の創作に打ち込めない今の自分自身そのものではないかー。

こうして生まれた童謡が『かなりや』でした。

歌を忘れた カナリヤは 
うしろの山に すてましょか
 
いえいえそれは なりませぬ
 
歌を忘れた カナリヤは 
背戸のこやぶに うめましょか
 
いえいえそれは なりませぬ
 
(略)
 
歌を忘れた カナリヤは
象牙の船に 銀の櫂
月夜の海に 浮かべれば
忘れた歌を 想いだす

「かなりや」 作詞:西條八十

後に西條八十は『自叙伝』で以下のように語っています。

この憐れむべき、歌を忘れた小鳥も、いつかは運命の手により、(中略)適処適材の位置に置かれれば、忘れ去った昔の唄をもう一度思い出し、美しい声で歌うようになるかもしれないという期待であった

「西條八十」 著:筒井清忠 より引用

翌年の大正8年(1919年)、この童謡「かなりや」に曲がつけられ、初の歌謡童話となり、当時の子供たちに歌われることになります。

同年、西條八十は初の詩集を出版します。
やがて昭和に入り、西條八十は作詞家として、戦前、戦中、戦後を通じて、多くの流行歌を生み出します。
ですが、それはまた別の話ー。


参考・引用資料
 「西條八十」 著:筒井清忠

 「西條八十と昭和の時代」 著:筒井清忠

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