【歴史のすみっこ話】ボクの知らない大阪の歴史~歌人・詩人・作家「杉山 孝」~

大阪の富田林の、大阪でも指折りの大地主、杉山家の長女として、明治15年(1882年)に生まれた杉山 孝(すぎやま たか)は、19歳の頃から、女性週刊誌『婦女新聞』や実業之日本社の雑誌『婦人世界』に小説(翻訳小説)や論評などを発表し、1903年には与謝野鉄幹主宰の『新詩社』に参加し、『新詩社』の詩歌雑誌『明星』に短歌を発表します。
[創作活動の際は、石上露子(いそのかみ つゆこ)または ゆふちどり の筆名を用いています]

1904年2月に日露戦争が始まりましたが、杉山 孝は石上露子名義で『婦女新聞』に「兵士」という反戦小説を、1904年4月という開戦間もない時期に発表しています。

また1904年の『明星』7月号には、ゆふちどり 名義で反戦の短歌を投稿しています。
これは、富田林出身の兵士が戦死し、戦死した兵士とその両親の悲しみが創作の元になったそうです。

みいくさにこよひ誰かが死ぬさびしみと髪ふく風の行方見まもる
(日露の激しい戦いの報を聞くと私の胸は痛む。
 今宵は誰が戦死するのだろうと思うと、なんともいえず寂しいので、
 私の髪を乱して吹いて過ぎる風のかなたを、目を凝らして見ている。
 妻や母たちのかなしみを思いつつ。)

※「富田林きらめきミュージアム」より引用

与謝野晶子が『明星』に「君死にたまふこと勿れ」を発表するのは1904年の『明星』9月号、2か月後となります。

杉山 孝は、婿養子を迎えて杉山家を継ぎ、夫の要請からか、創作活動を一時中断します。
(初恋の人に対する実らなかった想いを詠んだといわれる詩「小板橋」を発表しています)

杉山 孝は1936年に創作活動を再開しますが、夫は投機で失敗し、杉山家は没落、別居。長男は病死、次男は自殺と、決して恵まれた人生を送れなかった
杉山 孝は昭和34年、78歳で亡くなっています。

思想信条ではなく、一人の女性として反戦の小説・短歌を創作し、そして名家の因習を(悲しみながらも)受け入れた女性が明治の大阪・富田林にいたことを知りました。

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