歴史のすみっこ話(8)~鉄道開業・大久保利通の手のひら返し~
※歴史的事実をベースに、かなり脚色しています^^;。
時は元号が明治になってまだ間もない、明治2年(1869年)のこと。
慶応3年12月23日付で、徳川幕府から、江戸~横浜間の鉄道の施設と経営の免許をもらったアメリカ公使館書記のアントン・ポートマンが、この許可は今でも有効ですよね?と明治新政府に確認しに来たのは、明治2年1月29日のこと。
それに対応したのは、佐賀藩出身の大隈重信。
あれ?徳川慶喜さんは大政奉還を慶応3年10月15日にしたのに、その後にそんな許可だしたんだ。
いやいや、そんなの無効でしょ。
それに鉄道は日本人が自力でする予定だし。
アメリカが日本に鉄道を敷いて経営するなんて、ダメです。
そう返事をしたものの、ポートマンも「ですよね」と納得するはずもなく、「いや、許可もらってるし、鉄道を敷かせてください」と言うわ、他にも鉄道を敷きたいと言ってくる者も出てくるわで、大隈重信は、長州藩出身の伊藤博文と井上馨に声をかけて、自宅で策を練ることに。
「鉄道って山や川を越えて移動するよね。これって、ひとつの国家をつくるという意味で、廃藩置県をサポートするものだと、オレは思うんだよね。君らもそう思わない? ( ̄ω ̄)」
大隈重信の意見に、伊藤博文・井上馨も大いに賛同。
「だけどいきなり全国に鉄道を敷くのは無理だ。だから、まず東京から京都、大阪そして神戸までの幹線を敷いて・・・。あと、福井の敦賀までの支線を引くまでを第一段階としようと思うんだ ( ̄ω ̄)」
第一段階にしては手を広げすぎでは?などと微塵も思うこともなく、大隈重信は、明治新政府に意見として上申する。
当然、怒ったのが、明治新政府のリーダー的存在の大久保利通。
「大隈、お前、明治政府が金欠なの知ってるよな。それなのに、神戸まで鉄道を敷くだと?今年は凶作で、民は食うものがなくて困ってんだ。そんな状況で鉄道なんて許可できるか!却下!(*`Д´*)」
怒る大久保利通。
しかし、木戸孝允と岩倉具視は賛成派だったので、なんとか大久保利通を説得させることに成功。
途中すったもんだはあったものの、薩摩出身の上野景範をイギリスに派遣し100万ポンドの外債をロンドン市場で公募することにも成功し、鉄道施設の資金を得る。
そして、明治5年9月11日に、東京は新橋から横浜までの鉄道が敷かれた。
「 本当は神戸まで敷きたかったけど・・・。ま、最初だし、いいか ( ̄ω ̄)」
大隈重信は、新橋から横浜までを1時間で結ぶ鉄道開業に、とりあえずは満足げ。と、そこに大久保利通がやってくる。
「あ、大久保利通さん。どうです、蒸気機関車は。野を越え、山越え、川を越えて、新橋から横浜まで、たったの1時間で移動できるんですよ ( ̄ω ̄)」
「・・・大隈 (*`Д´*)」
「あ、まだ怒ってます?でも、もう敷いてしまったんですけど ( ̄ω ̄)」
「大隈、これや、これやがな !(*`Д´*)」
「なぜ関西弁なんですか?( ̄ω ̄)」
「百聞は一見にしかずとは、まさにこのこと。いいか、大隈。鉄道の発展なくば、国家の発展はあり得ずじゃあ!わしゃぁ、前からそう思っておった!(*`Д´*)」
「いや、大久保利通さんが一番反対してましたよね。なに急に手のひら返ししてるんですか ( ̄ω ̄)」
「ごちゃごちゃとうるさい!これから日本中に鉄道を引くぞ、大隈!(*`Д´*)」
「・・・いるよな、こういう人。さんざん反対してたのに、必要性が分かると、これまでのことをなかったことにして、先頭に立って進めたがる人って ( ̄ω ̄)」
そして明治新政府は鉄道の開通にまい進する。
明治7年には大阪~神戸間の鉄道開業。明治10年には京都~大阪。
明治22年には大隈重信念願の東京~神戸全線が開通する。
そして明治24年には上野から青森までが開通。
明治の世になって、わずか四半世紀のことだった。
「大久保利通さんが凶刃に倒れてはや14年か・・・。大久保さんに見せてあげたかったなぁ・・・ ( ̄ω ̄)」
と、大隈重信が思ったかどうかは定かではない・・・。
■参考資料