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【司馬遼太郎さんがゆく】~司馬さんのコラム作法~

司馬遼太郎氏は、産経新聞社の文化部時代、『風神』という署名でコラムを書いていたそうです。

後に真田十勇士の霧隠才蔵を主人公にした小説『風神の門』や、字は違いますが、エッセイ『風塵抄』を書いているところからも、この『風神』という言葉に、司馬遼太郎氏はなにかしらの愛着があったのかもしれません。

それはともかく。
この『風神』が書くコラムの大ファンで、産経新聞の記者になり、後に作家にもなった三浦浩氏が、「どうして『風神』のコラムはあんなに面白かったのだろう」と考えて、至った結果を次のように書いています。

やがて、わかった。
福田さん(司馬氏の本名)のコラムは、どこかにフィクションめいたものが隠されているのだ。あるいは、はじめの発想にフィクションがあって、これを堅固なファクトで硬めながら、コラム化しているのである。

「司馬遼太郎の言葉」より

これは興味深い言葉だなと思いました。
なんとなくですが、歴史小説ならば、まず事実というものが中心にあり、それをフィクションで、物語として血を通わせ肉付けをするものだとばかり思っていたら、司馬氏が書くコラムはその逆のであったようです。

これはコラムに限らず、司馬氏の小説にも言えるのかもしれません。

例えば『竜馬がゆく』では、主人公の坂本竜馬は、必ずしもすべてが、歴史上の人物である坂本竜馬と一致しないのかもしれません。

司馬氏の描きたかった坂本竜馬像があって、そこには幾分かフィクションが含まれていて、それを歴史的事実(ファクト)で固めて作られているー。

司馬氏の小説は、ややもすれば、書かれているすべてが歴史的事実であるかのように取られてしまうこともありますが、実は、作家としてのフィクションが隠されていて、そこが司馬氏の作品の魅力なのではないかと思わせてくれる、そんな三浦氏の言葉でした。

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はーぼ
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