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【司馬遼太郎さんがゆく】~司馬さんのルーツ?~

ずっと司馬さんは、大阪生まれだと思っていましたが、ちょっとわからなくなったきました。

というのも、現在読みかけの本、『司馬遼太郎の幻想ロマン』に以下の記述があったからなのです。

1959年(昭和34年)9月25日、産業経済新聞社大阪本社文化部の記者であった司馬は、海音寺に、新刊「梟の城」と、つぎのような手紙を送っている。
 
 拝啓
 いかがお過ごしでありましょうか。(略)
 講談社がつぎを書けと申しますので、まだプランは送っておりませぬが、大和葛城山ノ國ツ神であった一言主を書きたいと存じております。大和ノ

國をぶたいにした、ある日の秘史であります。

 わたくしの生家の上に小さな祠があり、一言主が祭神であるとききました。名前からみて、なんとなく古代警句家であるような思いがいたし、その後、想像が付加してきて、これはコロボックルであろうかと思うようになり、コロボックルについての想像がだんだん空想的になってまいりました。
(略)
 他種族にくらべ、この少数部族はいたってあたまがよく、知恵を出雲族

に売ることによってくらしていたと空想されてきたのであります。
出雲族の領土の葛城山にひとりすんでいた一言主も、そういう職業(?)の人物であります。
 出雲族は、臆病で勤勉で、そのくせ小ずるい種族であったかと思います。今の日本人の半分以上は、やはりこの気質をうけついでいるように思われます。その首領が長髄彦でありました。ただし長髄彦は、わたしの生家の裏に塚がありますので、好感を持ちたく思い(以下略)

磯貝勝太郎著「司馬遼太郎の幻想ロマン」

(※海音寺とは、海音寺潮五郎氏のことで、司馬氏の才能をいち早く認めた歴史小説の大家)

ちなみに、この本によると『司馬の父方の遠い祖先は、戦国時代に三木姓を名乗り、別所長治に味方して播州の三木城、英賀城に籠城し、秀吉の軍勢と戦い敗れた』と書かれています。

秀吉、司馬さんの先祖の仇ですやん!(o゚□゚)o

さて、生家についてですが、手紙の中で司馬さんが、自分の『生家の上に小さな祠があり、一言主が祭神であるとききました』と書いていることです。
 
著者の磯貝勝太郎氏は、これと『長髄彦は、わたしの生家の裏に塚があります』のふたつの記述から、司馬さんは母親の実家、奈良県北葛城郡磐城村大字竹内(現在、葛城市竹内)で生まれたことを手紙で示している、としています。

司馬さんが手紙で書いたのが事実であればWiki等で書かれている大阪生まれという説が覆りますが、はたして真相はどうなんでしょうか^^;。

司馬さんも小説家ですので、多少のフィクションを交えて同じ小説家の海音寺氏に送ったのかもしれませんが。

尚、司馬さんの母方の叔父は、古代大和の歴史に詳しく、司馬さんに自分は一言主長髄彦の血を引いていると信じるきっかけをつくった、と著者の磯貝勝太郎氏は書いています。

それと別に、この本で、司馬さんと歴史家の林屋辰三郎氏との対談での、『私の母方の祖母の実家というのは蘇我氏の直系と称してきた百姓です。(笑)蘇我氏の話をしてると、なんだか変な気持ちになってきたな』という司馬さんの発言も掲載しています。

つまり司馬さんの母方は、一言主長髄彦と、蘇我氏の血を引いているということになります。
古代大和時代はよくわからないのですが、なにかロマンがありますね。

司馬さんが作家活動のごくごく初期に書いていた幻想小説に関する書籍かと思っていたら、思いがけず、司馬さんのルーツの話が最初に出てきました😆


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