【歴史のすみっこ話】桶狭間で勝者と敗者を分けたのは何ですか?=その4=(2219文字)
■寿桂尼って誰ですか?
前回、今川家の当主である今川氏輝とその弟、今川彦五郎が同日に亡くなったと書きましたが、もう少しだけ詳細にその内容を書いてみようと思います。
今川氏輝が、父である、今川氏親の死去により、今川家第八代当主となったのが大永六(1526年)年六月。今川氏輝が14歳のときでした。若い、というよりも幼いというべきなのでしょうか。
この今川氏輝の生母が、今川氏親の正室、寿桂尼になります。
寿桂尼、と言うのは一般的にそう呼ばれているだけで、実は実名が分かっていないのです。
(寿桂尼は彼女の法名からきています)
京都の公家、中御門宣胤の娘であることはわかっていますが、実名もいつ生まれたかさえもわかってはいません。
今川氏輝が大永六年(1526年)六月に14歳で家督をついだものの、歴史学者の黒田基樹氏は『戦国大名家の当主として公文書を発給することができるようになる儀礼である『判始め』を済ませていなかった』と推測しており、大永八年(1528年)三月に今川氏輝の発給文書が確認されるまでの間、今川家の公文書は寿桂尼によってだされています。すなわち、この2年の期間、寿桂尼は、今川家当主代理の存在であった言えます。
また今川氏輝は二十歳になるまでの期間、たびたび政務を行えない状態になっており、そのたびに寿桂尼が当主代行を務めています。
「おんな戦国大名」と後世呼ばれる所以でもあります。
今川氏輝は、二十歳になってから、二十四歳で亡くなる4年間(この期間を晩年と呼ぶには若すぎますが)、今川家当主として政務をとり続けています(一時期政務を離れたのではという疑問も提示されていますが)。
今川氏輝の今川家当主としての活動で、取り上げられるもののひとつは、天文四年(1535年)に駿河に進行してきた武田信虎(武田信玄の父。後に武田信玄に追放される)との戦いがあります。
この頃、今川氏輝は武田氏と敵対関係にあったようです。
さて、天文五年(1536年)二月、今川氏輝は、後北条氏第二代、北条氏綱が催した歌会に参加すべく小田原へと行きます。
有光友學氏は、その著書「今川義元」において、今川氏輝の小田原滞在期間を『およそ一か月にわたる』と推定し、その理由を、数年来今川氏は武田氏と交戦をしており、北条氏は今川氏を支援していたことから、『北条氏と今川氏の首脳間で早雲以来の同盟関係を再確認し、今後の対武田戦略を協議したと考えてよいであろう』と見ています。
ここまではいいのですが、今川氏輝は駿府に帰国してから半月後の天文五年(1536年)三月十七日に、急死してしまうのです。
しかも同日に、弟の彦五郎も亡くなってしまうという不可解なことが起きたのでした。
この二人の死亡理由や背後になにかがあったのか、それともただの偶然なのかは不明です。
ただこの二人の急死で後継者を失ったため、仏門に入っていた今川義元とその兄、玄広恵探が、今川家の家督を争うこととなります。
庶子である玄広恵探が、弟である今川義元が家督後継者となったことに対して異議を唱え、天文五年(1536年)四月二十七日に乱を起こしました。これが後にいわれる花倉の乱の始まりです。
なぜ花倉の乱《はなくらのらん》と呼ばれるかについては、玄広恵探が、花蔵殿と呼ばれていたことから名づけられた、挙兵した地名にちなんで名づけられた等、諸説があります。
そして、花倉の乱は、今川義元の家臣、岡部 親綱の奮闘により玄広恵探から奪われた土地を取り返し、天文五年(1536年)六月八日に、今川義元に加勢した北条氏綱軍が、福島氏一族(玄広恵探の母の一族で、玄広恵探を支持する今川家家臣)と玄広恵探を攻撃したことで、天文五年(1536年)六月十四日に玄広恵探が自害し、幕を閉じています。
北条氏綱の加勢は、『寿桂尼から要請があったに違いない』と歴史学者の黒田基樹氏は見ています。
(家督を継いだ今川義元、およびその軍師ともいえる太原崇孚雪斎は、花倉の乱以後、それまで敵対していた武田氏との交わりを強くしていくことから、この指摘には説得性があると思います)
ともあれ、四月二十七日から六月八日までと、意外と長期間に渡り行われた(それゆえ、北条氏に援助を要請したとも言えます)、花倉の乱は幕を閉じ、今川家第九代、今川義元が誕生したのでした。
※花倉の乱の見解には諸説が多くあります。
【続く】