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You[信長]は何しに京へ?(1回目~初めての上洛~)[2594文字]

いつも投稿記事を愉しく読ませていただいている千世さんが8月1日に投稿された以下の記事へのコメントで、ボクは「京で信長が泊まった回数は本能寺よりも妙覚寺のほうが多いので、妙覚寺が定宿になると思う」と書いたのですが。

しかし、コメントを書いた後に、泊まった回数だけで定宿かどうかを判断すべきなのか୧( -᷅_-᷄)୨?と思い、ちょっと調べると本能寺が定宿だった可能性がでてきたので、訂正させていただくとともに後に記事にまとめて投稿しますと追加でコメントさせていただきました。

千世さんからは『記事を楽しみにしています』と暖かいコメントを頂いたので、ご期待に添えるかどうかはわかりませんが💦、織田信長が上洛した際に、どこに泊まったのかを、折に触れて順番に書いて行こうと思います^^;。

では、信長の1回目、最初の上洛について。
これは太田牛一の『信長公記』の記録から書かせていただきます。


1回目の上洛(永禄2年[1559年]2月)

  

有名な桶狭間の戦いが1560年で、その前年が信長の初上洛の年になります。

さて、この当時の信長ですが。
天文十八年(1549年)ごろから病に冒されて臥せりがちだった父親の織田信秀が亡くなった後、家督をついでいます。
 
ちなみに『信長公記』では、織田信秀の亡くなった日と年齢について、『終に三月三日御年四十二と申すに御遷化[ごせんげ=お亡くなりになったという意味]と書かれていますが、没年が書かれていません。

・・・没年くらい書いとけや。そーいうとこだぞ、牛一 ( º言º) 。

郷土史家の横山住雄氏が史料から綿密に考察をした結果、天文21年とされており、それに基づき、戦国史研究家で「信長研究の第一人者」と評された谷口克広氏が『信秀の没年月日は天文二十一年三月三日、と結論づけておきたい』(「天下人の父・織田信秀」より)とされています。

というわけで、織田信秀は、いきなり亡くなったという訳ではありません。

ところで、この信秀、息子は十二人、娘は十人以上いたといいます。

余裕でサッカーチームできます!当時サッカーはないけどね!ヽ(≧▽≦)ノ。

谷口克広氏は、信秀の十二人の息子を再検討し、年齢順に並べています。

信広・秀俊(信時)・信長・信勝(信行)・秀孝・信包・信治・信興・信照・秀成・長益・長利

信長は三男ですね (´-`) 。

跡取りとして重要なのが、正室の子であることなのですが、十二人の息子の内、正室の子は、三男の信長、四男の信勝(信行)。(六男の信包も正室の子ではないかと言われています)。
というわけで信長が正室の子では一番年上なので、跡取りの第一候補となります。
(もちろん、後継ぎとしての器量がなければ廃嫡する可能性もあったのでしょうが、信秀は信長を跡取りとしました。信秀が信長の力量を認めていた証になると思います)

ともあれ、家督を継いだ信長は、織田弾正忠家内の家督争いにケリをつけ、尾張統一へと邁進するのでした。

信長が最初の上洛をした永禄2年[1559年]2月には、尾張統一が完璧に完了したわけでないものの、だいたい尾張統一ができた時期となります。

『信長公記』にはこう書かれています。

信長は上洛することを急に発表し、随行の者八十人を指名して上洛した。

京都・奈良・堺を見物して、将軍足利義輝に謁見し、数日在京した。

このたびの上洛こそ晴れの舞台と意気ごんで、装いを凝らし、金銀飾りの太刀を誇らかに差した。お供の衆も皆 金銀飾りの刀であった。

「地図と読む 現代語訳 信長公記」 太田牛一:著 中川太古:訳

急に発表って・・・まぁ信長らしいといえば、らしいのですが( º言º) 。

ちなみに、将軍足利義輝は、この前年末に三好長慶(みよしながよし)との和睦が成り、実に五年ぶりに京都に帰ってきていました。

信長上洛の目的は、『岩倉織田氏を滅ぼし、尾張をほぼ平定したことで、義輝の還京祝いを兼ねて 尾張の正当な支配者としての認定を得るためだった、といわれている』(和田裕弘 著:『信長公記ー戦国覇者の一級資料』より)

尾張をほぼ平定したことと、将軍義輝の還京が、ちょうど良いタイミングで重なったので、将軍義輝から尾張の支配者としてのお墨付きを得ようとする政治的な狙いがあったわけですね (´-`) 。
 
その割に、京都・奈良・堺を見物してるけどな ( º言º) 。

もっとも、堺については、この上洛の中で、堺の地を手にすることの重要性を認識したのではないでしょうか。

津島という水運貿易の盛んな港を支配下に置くことで、大きな経済力を手にした織田弾正忠家の当主としては、当然そう思ったことでしょう。

堺、いつか手に入れてやんよ! (≧∀≦) とか思ったんでしょうね、信長ならたぶん (´-`)。

ところで、この初めての上洛、『信長公記』では『随行の者八十人』と書かれています。

ところが、京都の公家[羽林家(うりんけ)=例外を除いて大臣になるのは無理だけど、最高位は大納言までになれる家柄]、山科 言継(やましな ときつぐ)の日記、『言継卿記(ときつぐきょうき)』には、『五百人計云々』と書かれているそうです。えらく人数が違いますね。

和田裕弘氏は『しかも「異形者多云々」と風変わりな様子を伝えている。主な家臣が八十人、総勢五百人ということだろうか』(『信長公記ー戦国覇者の一級資料』より)と書かれています。
はて、残りの四百二十人くらいは何者なのでしょうね (´-`)。

さて肝心の宿泊場所ですが、信長公記によると『上京(かみぎょう)室町通りの裏辻にある』宿所となっています。

それ、どこやねん・・・寺でもないんかい ( º言º) 。

※追記※
九條正博さまよりコメントで『現在の京都御所の北西辻向い辺りの一帯(現在の町名でいうと室町頭町、裏築地町、築山南半町あたり?)。』とご指摘をいただきました。ありがとうございます。
その後、河内将芳:著『信長が見た戦国京都』にて、同様の解説があることがわかりましたので、以下に引用します。

最初の「室町通り」とは平安京で室町小路と呼ばれた南北に通る縦の街路を意味する。
現代の地図では、京都市営地下鉄烏丸線が通る烏丸通りの一本西にあたる道といったほうが探しやすいかもしれない。
もっとも中世の京都においては、この室町通りはメインストリートのひとつとして知られていた。(略)
「裏辻」というのも、この花御所(室町殿)の正面の門に立てられた「裏築地(うらついじ)」という堀が地名になったもので、永禄二年ごろには「裏築地町」と呼ばれ、現在でもそのまま地名が残されている。
したがって信長はこの裏築地町のどこかに「御宿」をとったことがわかる(略)
信長はこの裏築地町内にあった町人の町屋か屋敷を「御宿」にしたと考えられる。
(略)
一般に中世の京都に上洛する侍や軍勢は京都に自前の屋敷や宿所をもっている場合を除いて、その多くが寺院や公家屋敷、あるいは町屋に寄宿したからである。(以下略)


ちなみに、『信長公記』には、上洛する信長を狙うべく、美濃の斎藤義龍(さいとう よしたつ)が刺客を差し向けた、と書かれてます。

その刺客たちは、京の町で信長から一喝されるという一幕があるのですが、ヤバいと感じた信長ら一行は翌日の雨の中、『清州までの二十七里を一気に帰国した。刺客を警戒しての強行軍だろう』(和田裕弘 著:『信長公記ー戦国覇者の一級資料』より)とのことです。

こういう電光石火の行動は信長らしいと言えばらしいですね (´-`)。


■You[信長]は何しに京へ?まとめ
1回目の上洛  永禄2年(1559年)2月
 〇宿所:
上京室町通りの裏辻にある』宿所 [典拠:「信長公記」]
     ・・・だからどこ?(´-`)。
     →裏築地町内にあった町人の町屋か屋敷でした。

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