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You[信長]は何しに京へ?(~桶狭間から上洛までの9年間、いろいろありました編3~)[2480文字]

前回は永禄8年11月に武田・織田同盟(甲尾同盟)が成立し、足利義昭の働きかけで、永禄9年7月に、織田・斎藤氏の和解(「尾濃無事」)が成立したところまで書かせていただきました!ヽ(≧▽≦)ノ。

いよいよ足利義昭を奉って上洛やね ( º言º) 。

上洛しまてん!ヽ(≧▽≦)ノ。

え?なんて?( º言º) 。

だから、上洛しまてん!ヽ(≧▽≦)ノ。

上洛しないって、なぜに?( º言º) 。

いや、準備は着々と進んでいたんですけどね!ドタキャンが発生したんですね!ヽ(≧▽≦)ノ。

ドタキャン?( º言º) 。

信長は、やっぱ斎藤竜興は信用できなねぇと思ったんですかね。織田・斎藤氏の和解(「尾濃無事」)を破棄して、永禄9年8月29日に尾張・美濃の国境に軍を出して、戦争継続の意思をしめしたんですね。
まさにドタキャン!ゆるキャンならよかったんですけど!ヽ(≧▽≦)ノ。

キャンプしてる場合ちゃうわな( º言º) 。

もちろん、斎藤竜興も受けてたちます。こうして河野島の戦いが行われます。
といってもどんな戦いだったかは史料が 乏しいのでよくわかっていません。天候が悪くて木曽川が増水したので両軍身動きがとれずに、永禄 9年閏8月8日に信長は撤退を余儀なくされます。
撤退の最中に増水のため溺死する者も出て、信長の美濃出兵は失敗に終わります

ちなみにこの河野島の戦いは信長公記には書かれていません!ヽ(≧▽≦)ノ。

残したくない黒歴史なんか? ( º言º) 。

まぁ、戦争的には失敗ですよね。なぜ上洛よりも美濃攻めを優先したのかについて柴裕之氏は『織田信長』でこう書いていますヽ(≧▽≦)ノ。

この戦争継続の背景には、室町幕府将軍足利氏の停戦命令が絶対的効力を持つものではなく、停戦した状態を維持するには、結局、当事者の “自力での対応" が必要であった、という現実がある。
(略)
何より優先されるのは、家中と領国で構成される地域「国家」の存立(領国「平和」)であった。
そのため、地域「国家」の存立に支障を来すと考えられた場合、戦国大名や国衆は将軍の意向であろうと応じない姿勢をとった。

信長にとって、斎藤竜興は和解しても、やっぱり信じきれん存在やったんやな ( º言º) 。

これでワリを喰ったのが足利義昭ですね!。上洛計画がおじゃんになったのを見て取り動いたのは、三好三人衆。
今が好機とばかりに、足利義昭を庇護していた近江六角氏を仲間に引き入れて、近江国矢島にいた足利義昭を攻めます。ヽ(≧▽≦)ノ。

足利義昭、ピンチやん ( º言º) 。

そこで、義昭は妹婿の若狭武田氏を頼って身を寄せます!ところが、当時の若狭武田氏はお家が内乱状態なので、すぐさま越前の朝倉義景を頼り、越前に移動することになります!ここで、朝倉義景が登場するわけですね!ヽ(≧▽≦)ノ。

みんな信長のせいとちゃんうか? ( º言º) 。

柴裕之氏の『織田信長』にはこう書かれています!ヽ(≧▽≦)ノ。

このように、信長は義昭の参陣の求めに従わず、美濃一色氏との戦争を続ける道を選んでしまった。
そして、義昭の上洛計画はとん挫し、さらには義昭を危機に追いやった。

しかも、この事態を招いたとして、信長は世間から「天下の嘲弄(ちょうろう)」というそしりをうけ、面子も失うことになった。

あらまぁ ( º言º) 。

そして、それが故に、このことがこの後の信長の行動原理となるのです!ヽ(≧▽≦)ノ。

その結果、信長には「天下の嘲弄(ちょうろう)」に対する名誉挽回も含めて、美濃一色氏との対立を早急に解決し、領国「平和」も実現したうえで、一度は挫折した義昭の「天下再興」を実現させることが課せられた。
 
つまり、この時の失敗がのちのちまで影響し、その後の彼の動きを規定することになったのである。

一方、朝倉義景を頼って越前へと移動した足利義昭は、くじけていません。
翌永禄10年には、上杉謙信には出陣を要請、毛利氏にも文を送り、虎視眈々と上洛を機をうかがっています!ヽ(≧▽≦)ノ。

不屈の闘志やね ( º言º) 。

越前朝倉氏の庇護のもと、義昭とその臣下たちは着々と準備を進めます。まずは、義昭の元服です!ヽ(≧▽≦)ノ。

え、元服まだやったん? ( º言º) 。

僧侶から還俗しましたからね!。髷がゆえるだけ髪が伸びるのをまって、永禄11年4月15日、足利義昭は越前の一乗谷で元服し、名前も「義秋」から「義昭」に改名しましたヽ(≧▽≦)ノ。

ややこしいから、前から義昭で統一してたけど、そうやったんか ( º言º) 。

一方、三好三人衆は、10代将軍の足利 義稙(あしかが よしたね)の孫の足利義栄(よしひで)を将軍職につけようと画策します。
足利義昭と足利義栄の次期将軍争いに、どちらにも過度に肩入れしたくない朝廷でしたが、ついに永禄11年2月に、足利義栄を第14代征夷大将軍に任命にします!
越前の足利義昭にしてみれば、ぐぬぬ…( -”-)ですよ、ぐぬぬ!
この間の三好三人衆と朝廷の動きなど興味深いのですが、バッサリとカットします!ヽ(≧▽≦)ノ。

なかなか話が進まんもんな ( º言º) 。

さて、肝心の信長ですが、こちらは永禄10年8月に美濃一色氏を稲葉山城から追い出し、ようやく美濃平定がなりました。
いよいよ上洛が本格的になるのですが、長くなったので、『桶狭間から上洛までの9年間、いろいろありました編4』へ続きます!ヽ(≧▽≦)ノ。

え? ( º言º) 。


■参考・引用資料
 〇宿所の変遷からみる 信長と京都 著:河内 将芳
 〇信長の天下布武への道      著:谷口克広
 〇織田信長合戦全録          著:谷口克広
 〇信長研究の最前線        著:日本史史料研究会
 〇織田信長            著:柴裕之
 〇信長の城            著:千田嘉博
 〇信長と家臣団の城        著:中井均
 〇信長とは何か          著:小島 道裕
 〇武田三代            著:平山優
 〇信長公記―戦国覇者の一級史料    著:和田裕弘

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